宿毛市史【考古編-繩文時代-繩文時代の生活】

繩文晩期

この期は2300年から2700年位前の時期で、採集経済時代の最後の時期であり、やがてはじまろうとする弥生時代への、バトンタッチの直前の時期でもある。

平地に住居
この期の遺跡は、中村市では中村・入田・有岡、宿毛市では小島・橋上などをあげることができる。
これらの遺跡で共通している点は、平地の湿地近くに遺跡があるという点である。今まで住みなれていた海岸や山地を離れて、湿地にのぞんだ平地に居を移すには、それ相当の埋由がなければならない。
中村貝塚は、繩文晩期だけの遺跡であるが入田・有岡・小島 橋上遺跡は、繩文晩期から弥生時代に引き続いた複合遺跡である。
右のように低湿地にのぞんだ立地、次の弥生時代に引き続いているという点から、岡本健児氏は、この期にすでに稲作が始まっていたのではないかと推定している。その理由として、

中村貝塚から扁平な打製の短冊形石斧が出ているが、刃が横の長い部分についているので、穂摘み具の一種と考えられ、これが弥生前期の打製石包丁(穂摘み具)に変化するのではないか。
中村貝塚の下部貝層直下の灰緑色粘土層の花粉分析の結果、いね科栽培形(8%)いね科野生形(4%)が出たこと(高知大学中村純博士分析)。
繩文晩期の各遺跡からはあ撥形あるいは短冊形の打製石斧が出るが、これは、斧としての使用よりも、土掘り具すなわち石鍬としての機能を有するものであり、水田耕作、畑作の存在も考えられる。

以上のようなことから、繩文晩期には、少しづつ採集経済に別れをつげ、次の弥生時代への足がかりとして、稲作あるいは畑作等の農耕生活がはじまっていたと思われるのである。
このような観点にたって、宿毛の繩文晩期遺跡をみても、小島遺跡は、有岡遺跡に隣接するもので、その南面の低湿地で稲作を行なったことが考えられ、背後の丘では畑作をしたことも十分考えられる立地である。また橋上遺跡も橋上台地の東面は、松田川自然堤防の後背低湿地であったと考えられ、ここで稲作をし、台地の上で畑作をしたと考えることのできる遺跡である。だがこの時期に橋上、小島両遺跡で、稲作や畑作が行なわれていたと断言できる資料はまだ発見されていない。

小島遺跡
宿毛市山奈町山田、小島部落の南端にある遺跡で、南側は水田となり、北側は小島の台地となっている。
この遺跡は、有岡遺跡と500メートルしか離れておらず、ともに繩文晩期から弥生、さらに古墳時代にかけての複合遺跡である。農地の構造改善事業を行なった際に発見された遺跡で遺物は大部分水田下に埋没されたり散逸したりしているので、あまり詳しく遺物の状況を知ることはできないが、この遺跡の繩文土器は、有岡遺跡や中村貝塚から出土する中村Ⅰ式や中村Ⅱ式土器である。
小島遺跡出土の繩文晩期の土器
小島遺跡出土の繩文晩期の土器

橋上遺跡
橋上遺跡からも繩文晩期の土器が出土している。黒褐色の土器で、突帯に列点文がある中村Ⅱ式土器で、中村貝塚、有岡遺跡より大量に出土している土器と同じものである。繩文晩期でも後半のもので、弥生直前のものである。
橋上遺跡出土の中村Ⅱ式土器
橋上遺跡出土の中村Ⅱ式土器

繩文晩期の装身具
繩文前期・中期の人々が耳飾りをして、身体を飾っていたことはすでにのべたが、繩文晩期の人々も、やはり相当のおしゃれであったようだ。
宿毛市内では、繩文晩期の遺物があまり出ていないので、これを物語る資料はないが、有岡遺跡や中村貝塚からは、この期の装身具が出土しているので、参考までにあげておく。橋上や小島にいたこの期の人々も、おそらくこれらの装身具を身につけていたのであろう。
有岡遺跡からは、蛇紋岩製の小形勾玉が発見されている。長さ1.5センチで頭部に穴をあけてある。繩文晩期のものと考えられる。
中村貝塚からは晩期の土器にともなって、碧玉製の管玉が発見されている。長さ1.3センチの小形のものである。このほか、中村貝塚からは、鹿角製の美しいヘアーピン2本が出土している。1本は長さ15.1センチ、短い方は8.5センチで、鹿の角をけずり、よく磨いて作っている。このヘアーピンで、たばねた頭髪を止めていたのであろう。

繩文時代の食糧
繩文晩期には稲作や畑作が行なわれていたのではないかとのべてきたが、今までの考古学界の定説では、繩文時代は狩猟採集の生活で、農耕のはじまったのは弥生時代からであるとされている。
繩文時代の食糧については、前期や中期の遺跡は、県下的にも少なく、遺物も少ないので、どのような食糧をとっていたかを具体的に示すものはないが、尖頭器や石鏃によって、投げ槍や弓矢の使用が考えられるので、これによって獣類をとって食べた事だけは考えられる。
繩文後期になると、宿毛貝塚から多量の貝殼や獣骨・魚骨も出ており、石錘が出ているので網を使って魚をとって食べたこともわかるのである。
繩文晩期の中村貝塚でも多数の獣骨・貝殼・植物遺物が出土して、ほぼ当時の食生活を知ることができたのである。
これらのことから、繩文時代の人々は、好んで貝類を多く食べたことがわかる。宿毛貝塚のあの貝殼の量から見ても、相当多量に採取したことがわかるが、これら貝類の採取は主として女や子供達が行なったのであろう。
宿毛・中村両貝塚から、しか・いのししの歯や角等が多く出ていることから、これらのけものを好んで食した事がわかる。弓矢で射殺したり、おとしあな・わな等でとったのであろう。
貝塚の様子からみると、当時の人々は貝類や獣類が主食であったような感があるが、それはやはり誤りであると思う。現代の私たちの主食は、肉類や魚や貝類の蛋白質ではなく、やはり米麦を中心とした澱粉質のものである。繩文時代の人々も、やはり主食は澱粉質のものであったにちがいない。
繩文時代人は、まだ農業を行なわなかったので、山野に行って、木の実・草の根をほって、これを主食にしたのであろう。木の実では、どんぐり・しい・なら・くりなどがあり、草ではくずの根・わらびの根・やまいも・ゆりなども貴重な山の幸であったにちがいない。これらの植物質のものは、腐ってしまうので貝塚などからもあまり出土しないのであるが中村貝塚の下層の湿った粘土中では、よく保存され、こなら・いちいがし・くり・まてばじいの果実、ももの種子なども出ている。
岡山県の前池遺跡(晩期)からは、とち・くり・あべまき・かしなどの木の実が、10個の穴に貯えられていたのが発見されている。しかも、その量は、30石から40石と推定されており、これだけの主食が貯蔵されていたからこそ雨の日や雪の日などにも、心配なく過すことができたのであろう。このことからも主食はやはり澱粉質のものであったと考えてよいであろう。
岡山県の前池遺跡(晩期)からは、とち・くり・あべまき・かしなどの木の実が、10個の穴に貯えられていたのが発見されている。しかも、その量は、30石から40石と推定されており、これだけの主食が貯蔵されていたからこそ雨の日や雪の日などにも、心配なく過すことができたのであろう。このことからも主食はやはり澱粉質のものであったと考えてよいであろう。