宿毛市史【考古編-弥生時代-弥生時代の生活】

弥生前期

この時期は、今から2,300年前からはじまった時期で、200年間続いている。
それまで長い間、大陸との交渉もなく、孤立を続けていた繩文時代の日本に、新しい大陸文化がおしよせ、またたくまに日本中へ波及して、生活に大変化の起こった時期である。
弥生文化の第一の特色は、稲作の普及である。稲作は繩文晩期にすでに行なわれていたのではないかと、繩文晩期の項でのべてはいるが、それはまだ想像の域であり、確実に稲作が行なわれだした証拠のあるのは、この弥生前期からである。入田・橋上等出土の弥生前期の土器に籾の痕のついているのが何よりの証拠である。
日本で一番初めに弥生文化がはじまった所は、北九州であるが、この弥生初期の板付式系統の土器が、中村市の入田・有岡、宿毛市の橋上・福良から発見されている。これは北九州に発生した弥生文化が、直接播多の地に入ったことを示すものである。おそらく北九州にはじまった弥生文化が4、50年とたたないうちに、豊後水道をわたって宿毛湾に入り宿毛市・中村市の低湿地に及んだもので、土佐における弥生文化の発祥地が、宿毛市・中村市である。この時代はまことに土佐の文化は西方よリ、といってよい位である。
 弥生前期の遺跡は、中村では入田・有岡があるが、宿毛では橋上・福良をあげることができる。小島遺跡もこの中に入るのであろう。

橋上遺跡
橋上遺跡は、松田川にそった河岸段丘の上にあり、繩文前期から引き続いた複合遺跡で、すでに繩文晩期ごろから、稲作りをはじめていたとも予想されるが、弥生時代になって稲作りを行なっていたことは、この遺跡から籾の痕のついた弥生式土器が発見されたことで証明できる。
土器を作る際、形のでき上がったばかリの、やわらかい土器を、庭に並べて乾した際、土の上に籾が落ちておれば、その上に置いた土器の底には籾がくっつき、焼けぱ籾は焼けて、その痕がくぽんで残るのである。このような籾痕土器は方々で発見されているが、弥生前期では入田・橋上、弥生後期では芳奈遺跡・芳奈向山遺跡より出土している。
この橋上遺跡よリ出土した弥生時代のものは次の通リである。
1 土  器弥生時代の最初の士器は、北九州の板付式の土器であるが、これと同じものが、入田や有岡遺跡から出ており、この土器を入田Ⅰ式土器といっている。その土器の特徴は、壼形土器では口縁が 外に反り、頸部はちぢまって胴部はふくらみ、器面は平らでよく磨かれ、色は黄褐色で文様はほとんど上胴部に施され、へら描きによる端正な羽状文、重弧文、平行沈線文がある。この入田Ⅰ式土器が橋上遺跡から出土している。へら描きの重弧文のあるもので、入田や有岡出土のものと全く同じものである。
2 石器(石鏃)チャート製、粘板岩製のものが出ている。この期にも弓矢は盛んに使用されていたのである。

橋上遺跡出土の弥生式土器 橋上遺跡出土の籾痕土器 橋上遺跡出土の入田Ⅰ式土器 橋上遺跡出土の石鏃
橋上遺跡出土の
弥生式土器
橋上遺跡出土の
籾痕土器
橋上遺跡出土の
入田Ⅰ式土器
橋上遺跡出土の石鏃

福良遣跡
小筑紫町福良の政所、今城美福氏の裏山のすそから土器が何点か出土したが、その土器が弥生前期の土器である。岡本健児氏の鑑定によればこの土器は、入田Ⅰ式土器と、入田Ⅱ式土器であるということである。
入田Ⅰ式土器は、赤褐色無文の土器で、平底の底部が2点出ている。北九州の板付式系統の土器である。
入田Ⅱ式土器は、大篠式土器ともいわれ、やはリ弥生前期のものではあるが入田Ⅰ式土器よりは時代の下るものである。口縁近くに二条の突帯があり、その突帯と口縁に列点文を施している。胴の下部にははけ目が縦につけられており、底は平底である。
福良遺跡は、福良川の下流沿岸にあるので、その付近の、福良川沖積平野の湿地帯で、当時稲作りを行なっていたものであろう。川向うの福井氏宅の庭の植木鉢の中にたたき石もあったが、今は現物がなくなっている。
福良遺跡出土の入田Ⅰ式土器 福良遺跡出土の大篠式土器 福良遺跡出土の大篠式土器
福良遺跡出土の入田Ⅰ式土器 福良遺跡出土の大篠式土器 福良遺跡出土の大篠式土器