宿毛市史【考古編-弥生時代-弥生後期】

弥生後期

この期は、2世紀から3世紀にかけての時代で、17、800年昔の時代である。
この期になると、農業は大発展をし、南四国ではやっと青銅器・鉄器が使用されだし、そのためこの期の末期には石器の姿は非常に少なくなってくるのである。
中村市では、後川、四万十川、中筋川の沿岸に、この期の遺跡が非常に多いが、宿毛市でもやはリ中筋川沿岸の、小島・芳奈・芳奈向山などに遺跡がある。中でも芳奈遺跡と芳奈向山遺跡は、岡本健児氏を呼んで宿毛市教委の手で発掘調査をしたので、資料も豊富であり、その全容も明らかになった。

芳奈向山遣跡
昭和48年9月下村勲氏が、芳奈の農業改善事業の工事現場で、土器の破片を発見し、出土地点をつきとめ、篠田猛氏と石器や土器を採集して、市教委に連絡した。
遺物の出土地点は芳奈平野の西端、向山の標高20メートルの台地の中程の斜面にあり、遺跡はすでに半分位は土取工事のためくずれ落ちているという状態であった。
調査の結果弥生後期の土器片2,000点余、打製石包丁7、鈎形石器2、砥石数点等が発見され、当時の貯蔵庫と見られる小さなたて穴も発見された。
貯蔵庫の上部の直径は2.4メートル、底部の直径は1.6メートル、高さ95センチで、穴の中には数多くの土器が、しまいこまれていたようである。御飯をむすこしきも、この穴の中で多く発見され、貯蔵庫のまわりには、稲の穂をつむ石包丁や、かき(貝)を打つ道具と思われる鉤形石器もあった。この遺跡出土の主なものは、次のとおりである。
1 土器貯蔵庫の内外より2,000余点の土器の破片が出土したが、小さな破片が多く、完全に復元できるものはほとんどない。壼・かめ・器台・たかつき・こしき等が出ている。壼は、口頸がまっすぐに立ち、口縁がやや外に反り、二重口縁である。頸部から胴部に移る所に、とがった突帯があり、胴部はよく張っている。又二重口縁をせず頸部の突帯のない壼もある。かめは、ゆるやかなくの字の口頸で、壼・かめ共に底部は小さな平底である。これらの土器はすべて赤褐色であるが、焼きはあまりよくない。こしきは高さ7センチロ径10センチ位の小形のものが数多く出ている。底に小さな穴があるので、御飯をむす、こしきと思われるが、中村市で発見されたこしきに比べると小さいのが、その特徴である。籾痕のある土器も2点発見されているので、当時稲作りをしていたことが立証される。これらの向山出土の土器は芳奈Ⅰ式土器と命ぜられ、弥生後期でも終わりごろのものであるが次の芳奈Ⅱ式土器よりは、少し古いものである。
2 石器
(イ)石包丁打製石包丁が7点も出土した。長さは7~10センチ、幅5センチ位で粘板岩をうちかいで作ったもので、長辺に刃がつけられ、両端をうちかいで、紐がずれ落ちないようにしている。一見石錘とよく似ているが、刃がついているのと厚さがうすい点が異なっている。いうまでもなく包丁として使ったのではなく、稲の穂つみ具である。他の地方では、小さな孔のあけられた磨製の石包丁がよく発見されているが、宿毛市では、そのような精巧なものは1点も発見されず、打製の粗製のものばかりである。農業生産が向上して多忙となり、ていねいに穂つみ具をつくる時間もなく、このような粗製のものになったのではなかろうか。
(ロ)鈎形石器礫の一方をうちかいで鈎形にしたもので、かき(貝)を打つ道具であろうといわれている。2個出土しているが、かき打ちだとすると、遠く宿毛湾方面まで出むいていたのであろう。
(ハ)たたき石
  ・すり石
円礫を利用した周辺に打痕又はすり痕のあるものである。木の実などをたたきつぶしたり、すりつぶしたりしたものであろう。
(二)砥石数個の砥石が出ている。石器や鉄器などの研磨に用いたものであろう。直線の入ったものもある。

芳奈向山遣跡出土のこしき 芳奈向山遣跡出土の籾痕土器 芳奈向山遣跡出土の土器
芳奈向山遣跡出土のこしき 芳奈向山遣跡出土の
籾痕土器
芳奈向山遣跡出土の土器
芳奈向山遣跡出土の土器 芳奈向山遣跡出土の土器芳奈Ⅰ式土器 芳奈向山遣跡出土の打製石包丁
芳奈向山遣跡出土の土器 芳奈向山遣跡出土の
土器芳奈Ⅰ式土器
芳奈向山遣跡出土の
打製石包丁
芳奈向山遣跡出土の鈎形石器 芳奈向山遣跡出土のたたき石 芳奈向山遣跡出土の砥石
芳奈向山遣跡出土の
鈎形石器
芳奈向山遣跡出土の
たたき石
芳奈向山遣跡出土の砥石

芳奈遺跡
昭和48年3月、芳奈の段松靖君が耕地の排水工事現場で土器約300点を発見採集し、橋田に連絡があリ、まもなく岡本健児氏を招いて市教委の手で発掘調査をした遺跡である。
芳奈部落の南部に広がる芳奈平野の水田の東端にあって、洪水などの際、土器などが流され、この地点に集まって堆積した遺跡であり、したがって住居地ではない。
この遺跡からは、弥生式土器が主に出土し僅かに土師器・須恵器も発見されている。
この遺跡出土の弥生式土器は、色は黒褐色のものが多く、文様はほとんどなく、僅かにはけを使って仕上げたとみえてはけ跡がある位である。その上底が極めて小さい平底で、次の土師器の丸底への移行途中のものと考えられ、芳奈向山遺跡出土の芳奈Ⅰ式土器より一時代下るので、芳奈Ⅱ式土器と命名されたのである。芳奈Ⅰ式→芳奈Ⅱ式→土師器となるその中間のもので、土師器になる直前、すなわち弥生の最末期の土器である。
この芳奈Ⅱ式土器を代表するものとして、非常にめずらしいひょうたん形土器が出土している。このつぼは、山本清義氏が泥まみれになって、排水溝中より掘り出したもので、高さ40センチのひょうたん形で、頸部と2つの壷の接合部に突帯があり、それに斜線文が描かれている。底は極めて小さい平底である。
この遺跡からは、籾痕土器と、打製石包丁も出ておリ、この時期この付近での稲作りを証明してくれるのである。
芳奈遣跡出土の芳奈Ⅱ式土器 芳奈遣跡出土の芳奈Ⅱ式土器 芳奈遣跡ひょうたん形土器出土状況 芳奈遣跡出土ひょうたん形土器
芳奈遣跡出土の
芳奈Ⅱ式土器
芳奈遣跡出土の
芳奈Ⅱ式土器
芳奈遣跡ひょうたん形
土器出土状況
芳奈遣跡出土
ひょうたん形土器
芳奈遣跡出土ひょうたん形土器実測図 芳奈遣跡出土の籾痕土器 芳奈遣跡出土の打製石包丁
芳奈遣跡出土ひょうたん形土器実測図 芳奈遣跡出土の籾痕土器 芳奈遣跡出土の打製石包丁