宿毛市史【考古編-古墳時代-古墳時代の生活】

後期古墳時代

6、7世紀の時代を後期古墳時代というが、この時代は国造の支配下に割合に平穏な生活が営まれたようである。この時代もやはり平野部で稲作を盛んに行なっていたとみえ、各河川の沿岸の低湿地にのぞんだ所に多くの遺跡がある。
神々の祭り
この時代には神々の祭リも盛大に行なわれたようである。病気、風水害等はすべて神々のいかリと感じたであろうから、神々を祭ることにより、そのいかりをしずめようとしたようである。中村市の中山遺跡や古津賀遺跡等から、これら祭りの時に使ったと思われる祭祀遺物が出ている。それは石製及び土製の模造品でごく小形のおもちゃのようなものである。石製模造品の中には、鏡・剣・勾玉・臼玉があり、土製模造品には鏡・勾玉・丸玉・小形粗製土器がある。これらの品物を、さかきの枝にかけ、神棚に並べて祭りをしたのであろう。
宿毛市からは、これら祭祀遺物はまだ出ていないが、同じような祭リが行なわれていたと考えてよいであろう。

須恵器
この時代の特徴には、新しい須恵器という土器が出るということである。
5世紀の終わりごろ、朝鮮半島から新しい土器の作リ方が伝わった。それが須恵器という土器で、6世紀になると、国内でもさかんに作られだした。
須恵器はろくろを用いて器形をつくリ、のぼり窯を用いて、高温で焼いており、色はねずみ色をしておリ、弥生式土器や土師器の、赤褐色や黄褐色の土器とは、全然質の異なる土器である。
ろくろを用いたので、器の表面には平行線状の痕がつくが、かめ等の大形のものは、古くからある巻き上げの方法をとり、同心円を刻んだ木片を内部にあてて、外から平らな板でたたいて器面をしめているので、器の内面に青海波状の圧痕が残リ、外面には平たい板に刻まれた平行線の刻み目の跡がついている。
形のできた土器は、乾燥後のぽり窯に入れるが、その窯は30度前後の傾斜をもつトンネル状の窯で、丘の端などの傾斜地を利用して作られ、下にたき口があり、煙は上に出て、千度以上の高温を常に出すようになっている。この土器がねずみ色をしているのは、酸素の不十分な還元焔でやくためで、弥生式土器や土師器が赤褐色をしているのは、酸素を十分に与えた酸化焔でやくからで、この点からも根本的な相違がある。
こうして非常にかたい焼きのものができたので、土師器は次第に少なくなり、僅かに煮たき用に使われるくらいとなり、日常用具や祭りの道具はほとんど須恵器となったのである。
6、7世紀になると、須恵器が全国的に普及するので、中村市や宿毛市でも、この後期古墳時代の遺跡からは、よく須恵器が出土するのである。中村市の中山・石丸・入田・角崎・古津賀等からは完全な須恵器の各種器形が、多く出土しているが、宿毛市では、橋上・押ノ川・東寺尾・芳奈・小島遺跡で出土するが、量もわずかで、小さな破片のみであり、その器形さえ判明しないくらいである。

横穴式石室古墳
田ノ口古墳
田ノ口古墳

7世紀になると、横穴式石室古墳が、急に多くなる。高知市周辺には百何十基のこの式の古墳があるが、幡多地区では、中村周辺の、古津賀・竹島・田ノロで、計5基の古墳が発見されている。古津賀古墳と、田ノロ古墳は石室が残っているので、その規模を知ることができるが、竹島古墳の3基はすべて破壊されており、その様子を知ることはできない。
横穴式石室古墳というのは、遺骸を安置する玄室と、その通路に当る羨道を石で築き、その上に大きな石でふたをし、更に土を円形に盛り上げた古墳である。この式の古墳は、大陸の形式であって、5世紀にはすでに北九州で行なわれ、6世紀になると全国的に流行しているが、土佐では6世紀後半が最古で、多くは7世紀のものである。幡多地区のものは、すべて7世紀のものばかりである。
5世紀前半の平田曽我山古墳から、7世紀の古墳まで、百数十年間の空白がある。どこかにまだこの間の古墳があるはずであるが、今の所、5世紀末から6世紀にかけての古墳は発見されていない。
これら7世紀の横穴式古墳の主は、国造クラスとは思えない。高知市周辺の百数十基から考えても、すべてが国造のものではないはずであるが、あれだけの規模の古墳を作るのであるから、相当の豪族であったことには間違いないであろう。国造に次ぐクラスの小豪族の墓と考えたい。

後期古墳時代の遣跡
この期の遺跡は、中村周辺には極めて多いが、宿毛では次の遺跡があるだけで、その規模も小さいようである。
イ、押ノ川遺跡押ノ川944番地の小川氏の庭の築山状の盛土の所から、たたき石や須恵器の破片が出た。その築山状のものが或は古墳ではないかとも考えられるが、規模としては極めて小さいものである。
ロ、小島遺跡小島遺跡は、繩文晩期から古墳時代にかけての複合遺跡で、多くの須恵器の破片も出ているようだが、遺物が散逸しているので、その様子はくわしくはわからない。大形のかめもあり青海波文のものもある。この遺跡からは土錘も出土している。これは網の下につける土のおもりで、このような土錘は、現在でも海でも川でも使っている所がある。
ハ、芳奈遺跡芳奈遺跡からも、弥生時代の土器に混って、わずかであるが須恵器が出ている。
ニ、高知坐神社高知坐神社の境内からは、土師器、須恵器の破片が出土するが、須恵器の中には大形のかめの破片もある。
この遺跡にある高知坐神社は、延喜式に出てくる式内社で、古い神社であるが、これらの土師器、須恵器は、神社に使ったものの破片か、それとも住居跡のものか、今のところはっきりしていない。
ホ、東寺尾遺跡東寺尾の国道56号線ぞいにある遺跡で、土師器、須恵器の破片が出るが、極小の破片のみで、器形など全然わからない。この遺跡の近くの所で、たたき石も発見されている。
押ノ川遺跡出土の須恵器 小島遺跡出土の須恵器 小島遺跡出土の土錘
押ノ川遺跡出土の須恵器 小島遺跡出土の須恵器 小島遺跡出土の土錘
芳奈遺跡出土の須恵器 高知坐神社遺跡出土の須恵器
芳奈遺跡出土の須恵器 高知坐神社遺跡出土の
須恵器