宿毛市史【古代編-宿毛村の誕生-】

宿毛の出る最古の古文書

宿毛村の出る古文書で、一番古いのは、正安2年(1300)のもので、足摺の金剛福寺の古文書である。
この文書は、足摺の金剛福寺への臨時の奉賀米(寄付米)を各村に割りあてたもので、平田村7石、山田村7石、宿毛村7石と記されている。平田、山田は幡多五郷の中に既に出ているので、この鎌倉時代に出てくるのは当然であるが、宿毛が、平田、山田と同格の7石を割りあてられている所をみると、鎌倉時代には宿毛の沖積平野はかなり広くなり、相当な面積の水田が開かれていたことがわかる。
宿毛村は、この正安2年に7石の臨時の寄付米をうけ入れられる位に発展しているのであるから、ここに人が住み着き、耕作を始めたのは、それよりずっと古いということになる。史料がないので、その時期を知ることはできないが、平安中期、あるいは平安初期頃に宿毛村が始まったのではなかろうか。

  金剛福寺の古文書
 左大将家政所下   土左国幡多庄官百姓等
  可早任文永例守支配旨致沙汰蹉蛇御崎金剛福寺供養御奉加官米漆拾斛本斗事
  具同村拾斛 敷地村拾斛
  中村 拾斛 平田村漆斛
  山田村漆斛 宿毛村漆斛
  磯河名壱斛弐斗 江村弐斛参斗
  仁井田参斛伍斗
右件御奉加官米為臨時徴下任先例今年中如員数無懈怠可沙汰渡干院主快慶之状所
仰如件庄官百姓等宜承知勿違失故下
  正安2年11月 日 案主左兵衛尉中原
   令前能登守安倍朝臣 知家事杢助安部
別当散位源朝臣
  民部太輔藤原朝臣    (南路志)

この文書では、官米70石 本斗事とありながら、実際に割りつけた各村の合計は58石となって、12石の不足がある。この古文書は、『南路志』に載っているのであるが、『南路志』の写し間違いか何かであろうと思い、金剛福寺を訪ねて、この文書を探したが、この古文書は現在金剛福寺にはなく、この点解明ができなかった。漆斛の漆という字は、証書類等に七の字の代わりに使う字であり、斛はこくと読み、10斗の升め、すなわち1石のことである。