宿毛市史【古代編-式内社と仏教-】

寺山延光寺

延光寺は、宿毛市平田町中山にあリ、赤亀山寺山院延光寺といい、四国八十八ヶ所39番札所となっている。真言宗寺院で、神亀元年(724)憎行基が開基したものである。はじめ亀鶴山施薬院宝光寺といわれ本尊の薬師如来は、行基の作と伝えられている。
その後、延暦14年(795)僧空海(弘法大師)が再興してのち、赤亀山寺山院延光寺と改めた。当時、弘法大師は22才であり、錫を留められて四国八十八ヶケ所39番の霊場とされたのである。(延光寺縁起)
「人皇第50代桓武天皇の御代延暦14年弘法大師22才の御時、当山に錫をとどめて日夜法を修められしが、のち四国霊場39番の札所となれり。」(『寺山延光寺旧記』)とある。
なお、この寺には、有名な笑不動の画像およぴ国の重要文化財指定の弥勒寺鐘がある。
薬師如来、日光、月光の3仏像及ぴ子も宿毛市の文化財に指定されている。
寺山延光寺 延光寺本堂 赤亀山寺山院延光寺縁起
寺山延光寺 延光寺本堂 赤亀山寺山院延光寺縁起

笑不動
清和天皇の貞観17年(875)京都御所の右近の橘、左近の桜が枯れそうになった。これを心配された天皇は名僧たちにこの木をよみがえらすよう命じ、祈祷させたが効果がない。足摺蹉陀山の金剛福寺住職忠義和尚(坂本の生まれで南仏上人と称す)と、寺山の延光寺住職明俊僧正にも詔勅があったので、2人は同行して参内した。そして、宮廷の宝庫より巨勢金岡筆の不動明王の画像を出して祈願した。7日後の満願の日の明け方、橘と桜はよみがえった。その時、それまで難しい顔をしていた不動明王は、橘と桜がよみがえったのでにっこりと微笑した。それからこの画像を笑不動というようになった。
天皇は非常に喜ぱれて、何かほうびに欲しいものはないかと言った。2人の僧は、不動の画像を頂きたいといって、延光寺の明俊僧正は笑不動を、金剛福寺の忠義和尚は赤白不動の画像を頂き、持ち帰つて寺宝とした。(笑不動縁起)
寺山の笑不動は藩政時代は、土佐の宝として藩から保護されていた。明治維新の廃寺の時から行方不明となっていたが、現在では、延光寺に保存されている。昭和38年宿毛市の文化財に指定。箱書きの銘に「笑不動」「御再興料金拾両拝領予時寛保三亥年霜月廿八日表具成就処延光寺中興恵巌京都表具師山本市兵衛」とある。

弥勒寺鐘
寺山延光寺にある銅鐘には、次のような銘があり、形こそ小さいが、土佐最古の銅鐘で、延喜11年(911)のものであることがわかる。昭和16年国の重要文化財に指定されている。

  ----------------------------
  |  延 喜 十 一 年  |
  |  歳 次 辛 未 正  |
  |  月 九 日 甲 午  |
  |  鋳 弥 勒 寺 鐘  |
  ----------------------------

この寺宝の銅鐘は、高さ43センチ、底の直径23センチ、厚さ1.5センチ、縦帯と縦帯との間の池の間に右の銘があり、中帯下帯にも撞座はない。乳は3段で、竜頭の高さ6.5センチ、重さ約7.5キログラムである。
なお、この鐘の由来について次のような伝承がある。その昔、1匹の赤亀が小さな鐘を背負って海中からこの寺山にはい上がって来た。そのときの鐘がこの弥勒寺鐘であると伝えられ、寺山延光寺の山号を赤亀山というのはこれに由来するといわれている。
弥勒寺鐘(寺山延光寺蔵)
弥勒寺鐘(寺山延光寺蔵)