宿毛市史【古代編-平安時代の宿毛-】

応徳の譲状

香美郡大忍庄の庄園代官をしていた安芸家には、中世の記録300点が保存されていた。これが世にいう『安芸文書』であるが、本物は、今次太平洋戦争の際、徳島市内で焼失してしまった。しかし、明治23年に東京大学史料編纂所で影写していたものが6冊にまとめられて、今に保存されているので、その内容は正確に知ることができるのである。
その『安芸文書』の中に、ただ1点、幡多の庄園関係の記録があり、しかも、1番古い平安末期の応徳2年(1085)のものである。これが、ここで取り上げようとする古文書で、その内容より、譲状とか、境定書とか呼ばれている。この譲状は下のようなものである。
応徳2年といえば、源義家が奥州で転戦している後3年の役の時である。この時代に、幡多の地は藤原氏の庄園であった思われ、その庄園の庄官として、専当や庄司が置かれていたのである。その専当達が、土地を分けて矢野太郎に譲り渡し、その境を記しているのが、この古文書であるが、この古文書に相当多くの宿毛市内の地名が載せられている。
応徳の譲状
応徳の譲状(東大史料編纂所蔵)

これを読解すると、次のとおりである。( )内には、そのことばに当たる文字及び、それに相当する思われる現在の地名を記してみた。
永代中分申くし(公事)さかい(境)の事
 合
右件のくし(公事)さかへ(境)ふくら(福良)せんたう(専当)いよの(伊与野)なもと(名本)そうろう(宗呂)せんたう(専当)おくろ山(小黒山)やの (矢野)の太郎とあし川(足川)おちあい(落ち合い)にてよりあい(寄り合い)申て中分申候状也
一平田くし(公事)あへかえり(鮎返り)おちがはい(おにがはい)いよの(伊予野)くし(公事)あし川(足川)かわかきり(川限り)おちあい(落ち合い)たかひ(互い)さかい(境)にもち申候やけやかわ(焼井川)の内又おうふつ(おおつげ)きれのよこ(横)おおあかさか(あかじやれ)をさかをさか(境)ならひに(並に)つつら(葛龍)しおりのとう(しおりのとう)(を)さかい(境い)なり、又かくみ (加久見)くし(公事)くまやしき(くまやしき)せんふつ(せんぶつ)仁田山(仁井田山)東はふとお(太尾)(を)さかい(境い)也又みわら(三原)くし(公事)おくろ山(小黒山)の川頭をさかい(境い)ふとお(太尾)(を)たゆ二郎 (とうじろう)おおの(大野)はおの川をさかう (境う)やの(矢野)の太郎のかみわき(上脇)こさこ(小迫)(を)さかう (境う)まけ川口の神(田)さかう (境う)まつお(松尾)(を)かわかきり(川限り)さかい(境い)て、おくろ山(小黒山)(を)永代りよう(領か両か)3人よりあい(寄り合い)候てわけ申て候 やの(矢野)の太郎にゆつり(譲り)わたす(渡す)うへ(上)は いか(如何)なる人いらん(遺乱)(を)申候とも 此状をもって(以って)本とすへく(べく)候 仍後日状如件
 千時応徳弐年霜月拾二日   ふくら(福良)せんたう(専当)
                    そうろう(宗呂)せんたう(専当)
                       (矢)野太郎
しようしさえもん(庄司左衛門)殿へ念情花押

「永代中分」とは、永代にわたって分けるという意味である。「くし」は、ここでは、雑税と解する方が正しいように思う。「くしさかい」(公事境)は雑税を徴集する境という意味である。例えば、「平田くし」は「平田公事」で平田で公事を徴集する区域で、現代流で言えば、平田税務署管内とでも言う意味になろう。
ここに出てくる専当は庄園の役人のことで、地方にあって年貢や公事の徴集、庄内の治安に当たった人である。庄司も専当と同様の庄官である。
この譲状は、福良の専当、伊与野の名本、宗呂の専当、小黒山の矢野太郎の4名が、足川の落合いに寄り合って各公事の境を決め、土地の一部を矢野太郎に譲り渡したもので、如何なる人が異議を唱えても、この状が正しいということを庄司左衛門に報告したものである。
「一そうろのせんたう」と「あし川を」の2個所が欄外に小さく書かれているが、これは、書くのを忘れていたので後で気がついて書き加えられたものではなかろうか。
末尾の連名には、福良の専当、宗呂専当、矢野太郎、念情の4名がある。この4名は足川の落合いで協議した福良の専当、宗呂の専当、矢野太郎、伊与野の名本の4名と同一だと考えられる。福良の専当、宗呂の専当、矢野太郎の3名は共通であるが、伊与野の名本と念情とが違っている。『三原村史』では、念情は立会人であろうと言っているが、伊与野の名本と念情は同1人だと考えるほうが良くはないだろうか。
文中の「おくろ山内お永代りよう3人よりあい候てわけ申て候やのの太郎にゆつりわたすうへは…」とあるがこの「りよう3人」も難しいことばである。4人集まっているのに、どうして3人としたのであろうか。宗呂の専当を書き落としていたので、3人と思い違いをしたのか、宗呂の専当が集合に遅れ、初めは3人であったので3人とし、訂正するのを忘れていたのか、それとも矢野太郎は譲り渡されたほうであるので、これを除き、他の3人が「寄り合い分け申候」人数になっているのか、そのどちらかであろう。とにかく、足川の落合で協議をしたのは、4人であることに間違いない。4人が話し合い、小黒山内を分けて矢野太郎に譲り渡し、それに関係した境、すなわち、平田公事、伊与野公事、加久見公事、三原公事の境を記したのが、この古文書である。
この譲状に出てくる地名を、その記載順に説明してみると次のとおりである。
いよの伊与野で、小筑紫町内の大部落。
そうろう宗呂で、土佐清水市下川口町内の一部落。
おくろ山小黒山で、三原村下切の国有林中に小黒山の名が残っている。
あしかわ足川で、伊与野川の上流、二角ふたつのから北東へ入った谷川。現在もこの川が宿毛市と三原村との境になっている。
おちあい足川と伊与野川との合流点。
平田宿毛市平田町。
あえかえり鮎帰りで、足川の上流の滝の所。
おちがはえおにがはいが平田町久礼ノ川にある。
やけや川焼井川である。小筑紫町石原にある大山林。
おおふつきれおおつげであろう。焼井川と接する三原村下切側のおおつげの近くにある。
おおあかさかあかじゃれであろうか。三原村下切のおおつげの近くにある。
つづら葛龍で、小筑紫町石原にある小部落。
しおりのとうつづらの北部にある山の峯。三原村及び有永部落に接する。
かくみ加久見で、土佐清水市内の大部落。
くまやしき土佐清水市有永部落内のホノギ。
せんふつせんぶつで、有永部落内のホノギ、三原村に接す。
仁田山仁井田山であろう。仁井田神社の裏山で、有永部落のホノギ。三原村に接する。
ふとお太尾で、有水部落内の北方にあり、三原村に接す。天成地検帳に有永の北境として太尾が出てくる。
みわら原文を見ると、みわりと読むのが正しいかもしれないが、やはり、みわらであろう。「三原」である。現在は「みはら」あるいは、一部では、「みやら」といっているが、昔は「みわら」といったのかもしれない。小筑紫町内にある小三原は今でも「こみわら」と呼ばれている。
たゆ二郎とうじろうで、有永部落から三原村広野へ越す峠。
おおの場所不明。天正地検帳によると、土佐清水市珠々玉の南、宗呂境に大野口があるが、これでは三原境にならない。
おの川場所不明。おおのにある川の名である。
やのの太郎の
かみわきこさこ
矢野太郎の上脇の小迫で地名という程ではない。矢野太郎は小黒山にいたと思われるが、現在の小黒山に人の住めそうな所はない。亀の川部落に矢野の谷という所があり、そこを流れている谷川をさこの川といっているが、これと何か関係があるかもしれない。さことは小さな谷のことである。
まけ川口場所不明。
神田場所不明。神社の田を神田といい、有永をはじめ、所々にあるので、どこの神田かわからない。
まつお場所不明。珠々玉の南、宗呂境に松尾があるが、これでは三原境にならない。

以上の地名を略図をもって示すと、下のようになる。
安芸文書の地名
安芸文書の地名

以上の通リで、大部分の地名がほぼ確認できたわけである。平田公事境のあゆがへり、おちがはいも、大体平田と三原の境に近く、伊与野公事の境の、あし川、おちあい、おおつげ、しおりのとうは全く現在の三原境と一致している。加久見公事の、くまやしき、せんぶつ、仁田山、ふとおもすべて有永と三原との境にある。三原公事との境になる「おおのは、おの川、やのの太郎のかみわきこさこ、まけ川口は神た、まつおはかわかきり、」の地名が全くわからないのは、いかにも残念である。この不明の所は、三原公事と矢野太郎に譲り渡した小黒山内との境に当たるところであるので、現在の三原村中、しかも、大体亀の川部落付近になくてはならない地名である。三原の現地へも何回か足を運んでみたが、全く手掛かリがない。現在の小黒山には、人の住めるような所はなく、亀の川に矢野の谷があり、そこを流れる谷川を、さこの川といっている。最近まで、矢野氏(地下浪人の家)が住んでいたところであるがここのことかもしれない。
この譲状では、小黒山内を分けて矢野太郎に譲り渡したとある。しかし、実際にその境を地図に記入してみると、現在の小黒山よりは、ずっと範囲も広くなり、三原村の下切地区全部がその中に入ることになる。そうすると、矢野太郎に譲り渡した範囲は現在の下切地区と考えてよいのではなかろうか。小黒山は当時はずっと範囲が広く下切一帯あるいは、亀の川付近にまで及んでいたのであろう。
ともあれ、この古文書によって900年の昔、このような山中に、多くの地名が付けられ、境が決められて、それがあまり変化もせず、今日までそのまま伝わっていることがわかるわけである。地名と境界の歴史の古さをはっきりと示してくれたのが、この古文書である。
公事として差出す産物の生産地として、山の重要性が増すほど、その境界も重視されてくるのである。そのことから考えても、これらの山中でも、公事のためにかなりの産物が生産されていたのであろう。その産物を求めて、山中を歩き回った古代人の姿も浮かび、古代幡多の庄園の姿を探る史料として、まことに貴重なものである。今後研究を続けなければならないのが、この応徳の譲状である。(『土佐史談』140号、「応徳の譲状」橋田庫欣氏による)