宿毛市史【中世編-鎌倉時代の宿毛-】

平田太郎俊遠と源希義

鎌倉時代にあっても土佐国は依然、伊豆、安房、常陸、越後、佐渡、隠岐などと共に、重罪人を流す遠流の国であった。
源希義は頼朝の弟で、初め駿河国(静岡県)香貫に住んでいたが、平治の乱(1159)に父義朝が敗れて後、永暦元年(1160)平家のために駿河国で捕えられ、土佐国へ流された。父義朝は殺され、兄頼朝は伊豆ひるが小島へ流された。希義は、平家方では名前がなくては流罪にできないとして「希義」と名付けて、土佐国長岡郡介良けら庄(もと気良郷の地で現在高知市内)に流されここに住むようになった。人々は、彼のことを介良冠者または土佐冠者と称し、配流20年と伝えられている。
当時土佐国は平家の勢力範囲で、平家の領地であった。足摺の金剛福寺の古文書によると、平安時代の末期播多郡は、関白藤原忠通の荘園となり、宗我部氏が荘司となっていたが、応保元年(1161)平清盛のために取り上げられ、後嫡男重盛に与えられたとある。『南海治乱記』にも「平相国の時、幡多、高岡二郡を小松重盛に賜う」とある。
平家はその輩下に豪族であった蓮池権頭家綱、平田太郎俊遠をもっていた。家人蓮池権頭家綱を高岡郡蓮池村に置き、平田太郎俊遠を幡多郡平田村(現在の宿毛市平田町)に置いた。俊遠は平田に城を構えて住んでいたのである。
治承4年(1180)2月、土佐国が平重盛の知行国となったこの年、源頼朝が東国の石橋山で平家討伐の兵を挙げた時、平家は希義が頼朝に応じて挙兵するのを恐れ、家人蓮池権頭家綱、平田太郎俊遠等に命じて源希義を討たせた。寿永元年(1182)9月25日希義は、香美郡夜須荘の豪族夜須行家(後に夜須七郎行宗と改名)を頼ろうとして出かける途中、長岡郡年越山で平氏の命による蓮池家綱、平田俊遠等の追手によって殺された。こうして、重盛は源氏の再興を防ごうとしたのである。希義の遺骸は強勢であった平家方を恐れて、そのまま放置されようとしたが、介良荘の僧侶琳猷りんゆう上人により、その地に葬られたという。上人はその後、関東にのぽって頼朝に会い、その援助によって荘内に西養寺を建てた。西養寺は維新の排仏毀釈で廃寺となったが、今日寺跡に希義の卵塔の墓があり800年近い歴史を今に伝えている。
希義の戦死を聞いた夜須行家は、平氏の追手をさけて、仏が崎(香美郡夜須町手結てい)から紀伊に渡り、鎌倉へ行ってこの事を頼朝に告げた。寿永3年(1184)11月20日、頼朝は伊豆右衛門尉有綱に協力を命じ、夜須行家等と共に、蓮池権頭家綱、平田太郎俊遠を討たせたのである。
『平田村誌』(横山重夫著)によると、頼朝は、文治2年(1186)9月、梶原朝景を土佐へ下向させて蓮池、平田の二氏を攻め滅ぼしたと次のように記してある。
「…頼朝は深く弟の死を悼み、其の事実調査のために同年(寿永3年)11月20日伊豆右衛門有綱を下国せしめたのである。処が、果たせるかな希義の死は蓮池と平田の攻略によるものであることが明らかとなったので、頼朝は更に文治2年9月梶原朝景を土佐に下国せしめて蓮池、平田の2人を討たせたのである。この戦いに於て、源氏勢は陣ケ森(平田町貝礎)に陣し、平田勢は平田城(二重山)に據って奮戦大いに努めたが、不幸にして敗れ、俊遠は部下とともに打って出で、花々しく戦死を遂げたのである。因に平田城跡は今の城の下二重山にあって今尚焼米、土器の破片等が沢山出ている。又俊遠戦死の跡には後人が此処に御堂を建てて我等の勇士の霊を祭り村人はここを平田堂と呼んでいる。」
なお、平田太郎俊遠等に討たれた源希義の一子八郎希望は、母とともに難を逃れて鎌倉に赴き、源頼朝の知遇を受けて吾川郡弘岡で三千貫の地を賜わり吉良氏の祖となったと伝えられている。
平田城跡 平田太郎の墓
平田城跡 平田太郎の墓