宿毛市史【中世編-鎌倉時代の宿毛-】

宿毛における流人、落人

配流の人々
聖務天皇の神亀元年(724)3月、流刑の制が定められ、罪科の軽重によって、配流に遠、中、近がしかれた。
土佐は伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐の5国とともに遠流の国となったのである。これにより多数の人々が土佐にも流されたが、これらの人々の多くは、時の権力にたてついて破れた人々や、縁座の制によって罪を犯していない人も流されている。この人々が土佐の国に与えた影響は、いろいろな形で計り知れないものがあったと思われる。
幡多へ流され、宿毛に関係のあった人は、土御門上皇、尊良親王などである。

土御門上皇
法然上人が土佐へ配流されてより10数年を経て、土御門上皇が幡多へ流されている。
鎌倉幕府の勢力が次第に京都の朝廷に圧力を加えてきたので、後鳥羽上皇は幕府に反感を抱く公家や武士と結んで、討幕計画をたてた。これを知った執権北条義時は、その子泰時、時房に命じて、承久3年(1221)入京して首謀者を処分した。史上有名な「承久の変」の処断である。
これにより、仲恭天皇を廃し、事件に参加した公家や武士は斬られ、後鳥羽上皇(本院)を隠岐へ、土御門上皇(中院で、後鳥羽上皇の子)を土佐の畑(幡多)に、順徳上皇(新院で、土御門上皇の弟)を佐渡へ移すことになったのである。
土御門上皇は、承久3年閏10月10日、京都を去って阿波から土佐に入ったが、その間険しく、その上、大雪に遭いかごも進むことができないくらい非常に難儀な旅をされたようである。安芸野根山越えの際のことを『増鏡』には次のように叙述されている。
「いとあやしき御手輿にてくだらせ給ふ。みちすがら、こしかたゆくさきも見えず。いとたえがたき御柚もいたくこほりて、わりなき事おほかるに、うき世にはかかれとてこそ生まれけめことはりしらぬわがなみだかな。」
上皇は遷幸中、幡多郡中村の新町に常照寺を開基され京町に井戸を掘って用水とされたと伝えられている。「行きつまる里を我が世と思へどもなほ恋しきは都なりけり」は、中村の里で御座所から月を眺めて詠まれた歌だという。
こうして、幡多の地で配所の月を眺めること約1年7か月、貞応2年(1223)5月に改めて阿波国へ移された。それより8年の後、寛喜3年(1231)10月崩御(37才)された。
『幡多郡誌』によれば、上皇は幡多の配所にあるとき、平田村に真蔵院(後、藤林寺)を建てたと伝えられると、次のように記している。「承久の昔、土御門上皇当郡御遷幸の時の開基にして、真蔵院と号し天台宗なりしが、其の後大に廃頽したるを永正14年丁丑3月、一条氏によりて再興せられ此の時寺号を藤林寺と称し、禅宗に改め当時の住僧道可和尚を開山第一となし寺領300石を献じ本郡中僧禄所となし爾後同家の菩提寺となれり。」
しかし、真蔵院については確かな史料がない。中村にも同名のものがあるので、平田の真蔵院が果たして、土御門上皇の建立によるものかどうかわからない。
宿毛市中角の天王(八坂神社)にも、上皇が神具を寄進されたと『八坂神社伝』にみられるが、これも信じてよいものかどうかわからない。
また、上皇が幡多のどこにいたかも、はっきりしたことはわからない。中村町といわれるが、大方町ともいわれている。

八坂神社伝
「中角字新道鎮座、祭神素盞鳴命。天徳3年(959)6月15日、山城国愛宕郡祇園牛頭天王を直に勧請祝祭すとの棟札あり。
承久の乱土御門天皇当国遷幸の際、天運回復のため当杜に勅願され、銅金燈其他神具種々御寄附ありたるも、年代を経て伝わらず。唯当時奉幣使休息の石と称する巨石境内にあり云々」

尊良親王
後醍醐天皇は側近日野資朝、俊基らと計り討幕計画をたてた。第1回の「正中の変」は計画が事前に漏れ、六波羅の兵に囲まれてついに失敗した。第2回の「元弘の変」の企てにも密告者吉田定房のため、幕府方に知られて失敗に終ってしまった。これにより、天皇は幕府軍に捕えられて、元弘2年(1332)3月、隠岐に移され、日野俊基は斬られた。
後醍醐天皇の第一皇子、尊良親王も元弘の変の犠性者となって、北条高時のために元弘2年3月土佐国幡多郡入野郷(大方町)上川口付近に流されたのである。上陸された場所については、詳しくはわからないが、現在の大方町に当時の名残りを物語る名称が多く残されていることから、上川口付近とみて間違いなかろうというわけである。
幡多に移された親王は、大方郷奥湊川の領主大平弾正、有井川の庄司有井三郎左衛門豊高らの守護によって、謫居たっきょの歳月を過すことになった。
はじめ、親王は大平氏の館に迎えられたが、付近に敵方(北条方)の米津山城守がいて、危険なため、二里あまり奥地に移ったが、陰惨で寂しく、不便でもあったことから入野郷米原こみはらの地に移られた。
親王は、謫居のわびしさを和歌によって慰められたことが『新葉和歌集』によって智れるが、有井三郎左衛門豊高は、親王に日夜奉仕し、忠勤に励んだと伝えられている。
元弘3年5月、北条氏が倒れ鎌倉幕府が滅亡したので、この年の6月、後醍醐天皇は京都へ還御されることになった。尊良親王もその後、土佐を出られて京都へ帰られたのであるが、直接京都へ帰ったという説と、九州を経由して帰ったという説との両説がある。
『土佐史談』70号のなかで、秋山英一氏は「尊良親王の御行方」と題して、次のように述べられている。
「元弘2年の春の頃より、配所の月を眺め給ひし宮は、翌元弘3年3月、突如として肥前にその英姿を現し給ふたのである。いつ土佐を去り給ふたか、又如何なる経路をとり給ふたか雲をつかむようであるが、翌年3月14日、肥前の人江串遠江守等、親王を奉じ、勤王の旗を、のどかな大村湾頭の春風に飜した。恐らく、肥前の菊地武時がお迎へ申上げたものであり」といっており、山本大氏は『高知県史』で、九州潜行説を支持しており、その裏付けとなる資料等も紹介されている。
尊良親王が九州へ行ったとすると、当然宿毛を通過したことが考えられる。宿毛市橋上町の奥藤や下藤に天皇山、百人塚、七人塚等の地名もあり、親王がこの付近を通って戦い、伊予に出て九州に渡られたとの伝説もあるが、あるいは、この地が尊良親王の九州潜行の経路であったかもしれない。
九州に渡られた親王は、肥前の江串入道等に擁せられて、賊軍と戦っていたが、都の情勢が好転したので、元弘3年夏、京都へ帰られた。その後、建武中興の業に尽されたが、足利尊氏の叛逆によって、親王は延元2年(1337)越前の金ケ崎城で戦死された。

天皇山 下藤の七人塚
天皇山 下藤の七人塚

落人部落の伝説
都賀川の平家の落人の墓
都賀川の平家の落人の墓

宿毛市の山間部や海岸地域には、古代から中世にかけて、戦いに敗れた武士などが逃れ来て住んだという伝説がある。
源平争乱の寿永2年ごろ(1183)の源氏、平氏の勢力範囲は、源氏は北陸、山陰、東海、東山。平氏は山陽、九州の北東部、四国全域を中心に、それぞれを支配下に置いて勢力を争っていた。
文治元年(1185)壇の浦の戦いを最後に、平氏は全滅したのであるが、この間、平氏は源義仲等によって、京都を追われ、幼少の安徳天皇を奉じて、西国に逃れている。これが世にいう、平氏の都落ちである。このように、西国は当時、平氏との関係が深かったのである。
こういうわけで、平氏の勢力圏にあった四国にも、源氏に敗れた平氏の武士達が、身を隠すために逃げて来たのも自然であったかもしれない。もちろん、源氏の警戒もあったと思われるので、彼等は比較的、人目につかない山間部や、海岸地域に身を隠して、細々と暮していたと思われる。
宿毛の伝説によると、このころ、橋上の京法や還住藪に、平家の落人が来て住み、彼等が、村を開発したという話が伝わっている。また、小筑紫の都賀川にも、平氏が逃げて来たといわれ、その名残りをとどめる落人の墓が今もある。
ちなみに、南予地方の山間部を調べてみても、平家谷という地名があり、その付近の村には、今も「平家」という珍しい姓が多くあるのは與味深い。この村では、平家の先祖を祭っている神社もある。
これらの村には、証拠になるものは残っていないようだが、土地の人のなかには、代々の言い伝えにより、平家の子孫だと信じている人もいるという。
また、沖の島の弘瀬部落についても次のような伝説がある。
鎌倉時代の元久2年ごろ(1205)、幕府の重臣であった三浦大助の孫の三浦新介則久が、罪に問われて、北条義時のために、鎌倉を追放されることになった。三浦新介は、一族郎党を連れて伊予から沖の島に渡り、この島の弘瀬浦に住み着くようになったというのである。一族郎党はこの旅の途中、関所や番人の目を欺くために山伏や町人、稚児、女郎などに変装して大そう難儀なめに遭ったということで、この島に住む子孫達が、最近まで盆踊りにこれらの扮装をして踊ることを慣例としていた。そして、この踊りを鎌倉踊りと称していたのである。
足利尊氏は、天皇を中心とする建武の新政に不満をもつ武士を集めて兵を挙げたので、新政はわずが2年ほどで終ったが、これにより後醍醐天皇は、大和の吉野に移り、尊氏は京都に別の天皇を立てた。全国の武士は、吉野の南朝と、京都の北朝に分かれて、その後、50数年間争い続けたのである。四国においても、南朝、北朝それぞれに味方して争いが展開されたのである。
足利尊氏は、細川一族を四国に配置して、阿波を根拠地として軍事、経済上の支配権を握った。土佐は細川顕氏と弟の定禅が支配していた。こういうわけで、土佐においても、北朝方の勢力が強くなり、それが、宿毛方面にまで及んでいたのである。横瀬村高尾寺の鰐口銘に「至徳元年2月廿5日藤原有忠同能景」とあり、「至徳」という北朝方の年号が使われており、この地域が北朝方の勢力下にあったことがわかるのである。南朝方の兵士は、平坦部から追われて山間部などに逃げこもり、なおも抗戦を続けたという話しがあるが、宿毛市の山間部や海岸地域にも北朝方に追われて、逃れて来た武士が居たというが、はっきりしたことはわからない。
ただ、宿毛庄の区域にはいたか(はいたか)と称する神社が多く祭られているので、このはいたか神社が南朝方に関係があったのではなかろうかという感じがしないでもない。ちなみにはいたか神社を調べてみると、県下に27社あり、その内訳をみると高岡郡の東又村にただ1社あるのみで、あとの26社は、幡多地区に集中しているのが興味深い。また、その所在地域をみると、北播や幡西のように、ほとんどが山間や海岸の僻村にあるのも1つの特徴といえよう。どういうわけか、宿毛市内には、県下の3分の1に当たる9社が祭られているのである。
伊予でも南予の一部にあるようで、当時北朝方に味方していた地域が多かったなかで、この地域は南朝方に味方していたという。(伊予史談)
このはいたか神社については、南朝と関係のある様々の伝説、そして、社伝や由来があるようだが、その1、2例を挙げてみることにする。
伊予史談のなかで、長山源雄氏は「懐良やすなが親王の津島郷御駐駕に就いて」と題して、後醍醐天皇の皇子懐良親王が九州へ御下向の途中、当時南朝を奉じていた、伊予の津島郷へ御駐駕された形跡があるという意味のことが述べられている。
この懐良親王について、伊予の高近村高田の伝説に、懐良親王が御手人を16人連れてお出になり、内8人は土佐へ、8人は津島において討死され、拝高はいたか明神として祭ったものだというのである。また奥屋内のはいたか神社の祭神をみてみると、十六皇子が祭られており、口屋内のはいたか神社にも八皇子が祭られている。まことに興味深いものがある。
また、拝高神社由来記に「長慶天皇は、薙髪して覚理と号し、長慶院法皇と称す。法皇足利賊軍の襲来を避けて、他の十六皇子と共に南都を遁れ、伊予宇和郡に匿る。賊又来襲して法皇進退極まり、後醍醐天皇の尊牌を河原の禅寺に安置し、十六皇子と共に、岩松村瀧の口の深淵に入水し給へり。仍て此処を御所ヶ渕と称し、潜幸の地を御内と云ふ。その衣松田川を流れて大島に着く。高貴の衣を拝せし故、拝高大明神として祭れりと云ふ。」
これによると、拝高神社は津島町岩松村の滝ノロの深淵で入水せられた長慶天皇と十六皇子を祭ったというもので、高貴の霊を拝した意味で拝高大明神と称したというのである。
なお、宇須々木村のはいたか神社由緒は『神社明細帳』に次のように記されている。
「勧請年月縁起沿革等未詳古老伝説云人皇九十五代後醍醐天皇十六騎ノ祖母ト云(伝説ノ儘書ス依テ文字不当難計)或云伊予国身打(御内)村卜申所ニテ七人対ノ裳束着シ自水致ス人有其死体或云衣右阿瀬知山ノ正面二当リテ壱町許沖ノ礁二流着是右ノ天皇ノ由緒アリシ人ノ由ニテ是ヲ祭リ神トスト云。」
さて、これらによると、何か一連のものがありそうに感じられるが、宿毛にある9社のはいたか神社は、どこも祭神未詳となっている。ただ、『神社明細帳』や地検帳によってこれらの建立年代を調べてみると、大体、天正時代または、その前後に建てられたもののようで、なぜか、南北争乱時代に比較的近い年代に建てられていることも、また1つの特徴のようである。
伊予史談の長山氏の記述の中に、高田庄の伝説では、懐良親王が御手人を16人連れて来たというが、当時親王はまだ10才の皇子であった。高田より五条頼元等15人の御手人を連れて総勢16人で延元5年薩摩に落延びたがこの高田庄に一時、身を寄せたのは、この地方が南朝に味方していたからであるという意味のことが書かれている。また、南予の旭村奈良に、後醍醐天皇の勅許によって等妙寺が建立せられたとも書かれており、これらの地域が南朝とかかわりがあったことが述べられている。
ともあれ、宿毛にはいたか神社が多いのはどうしてなのだろう。今、これを解明することはできないが、これまでに述べてきた拝高神社由来記、宇須々木村のはいたか神社由緒書、高田庄の伝説、奥屋内、口屋内のはいたか神社の祭神、長山氏の説、これら一連の関係をみてみると、これらの地域と南朝方とに何かの関係があったのではなかろうか。あるいは、尊良親王が、大方郷より九州へ潜行されるとき、宿毛庄を通られたという伝説があるが、これに付会して造られたものだろうか。
当時、宿毛付近の山間部や海岸地域にも南朝に味方していた落武者がいて、彼等が後醍醐天皇や皇子を厚く尊崇され、その象徴として、当時の社会情勢を考え、祭神を明らかにせずに祭ったものではなかろうか。まことに、雲をつかむようなことであるが、何かのかかわりがあったように思われるのである。
大島のはいたか神社 芳奈の鷂神社 宇須々木のはいたか神社
大島のはいたか神社 芳奈の鷂神社 宇須々木のはいたか神社