宿毛市史【中世編-一条氏と宿毛-】

一条房家と藤林寺

一条家は京都五摂家の名門として、政治的社会的に高い地位にあった。この一条氏が中世において土佐の幡多荘を領有していたのである。
応仁元年(1467)7月、京都を中心に起った応仁の乱は、その後11年の間合戦が続き、京都は一面の焼野が原となった。この戦乱で貴族といわれた公家も生活に窮して地方の荘園を目指して京都を去るものが多かった。前関白左大臣一条教房(房家の父)も乱が起るとその年8月25日京都の兵火を避けて、初め奈良の興福寺に身を寄せていた。興福寺の住職尋尊大僧正が教房の弟に当たる関係である。教房は、翌応仁2年9月6日奈良をたち、同25日泉州堺から土佐の豪族大平氏の船に便乗して、翌26日に神浦(安芸郡東洋町甲ノ浦)に着き、10月1日に神浦を出帆、翌2日大平氏の居城蓮池に近い高岡郡猪ノ尻(宇佐町井ノ尻)に着き、ここでも数日間滞在してから、幡多の本庄中村に来国されたと伝えられている。
教房一行が大平氏の知行船に乗船して来国されたのは、大平氏の女房が教房夫人の宣旨殿と縁者であったためである(『大乗院寺社雑事記』)といわれているが、『土佐物語』や『古城略史』には、長宗我部文兼の父元親が京都にいた頃、教房の祖父に仕えて厚い恩遇を得ていた。それで、文兼は京都の乱を聞き、今こそ父の恩に報ゆるときと、船を艤して卿を兵庫浦から土佐国甲浦に渡し、自分の居城長岡郡岡豊に迎えたとある。
また、一説には、下国の理由について、京の戦乱によって畿内や付近の荘園からの年貢が入らなくなって、苦しい一家の経済を少しでも豊かにするために、有名無実となっていた幡多庄を回復して、荘園としての実績を挙げようとした為であろうともいわれている。
下国の理由はともあれ、京の絢燗たる文化を携え伝え、公卿大名というより戦国武将として数代百余年を土佐に勢力を張り、多くの影響を及ぼしたのである。
中村に来国した教房は、荘園内の土豪を支配下に組織して基礎経営に専念したのである。中村の町作りを京都に模し、風景も鴨川、東山に見たてて御所を設営したり、更に、下田を対明貿易の中継地とし、商業貿易の拠点として利益を挙げ、朝廷へも珍品を献納したり、石山(大阪)本願寺造営に土佐木材を送るなど、財力獲得にも成功し、凡庸の公家育ちを脱したものがあったようである。しかし、父兼良より先に文明12年(1480)58歳で死去した。国人十余人は、この主人を慕って出家したとも伝えられている。中村市妙華寺谷(奥御前谷)に教房の墓がある。
さて、教房の第2子で中村生まれの房家を、初代として房冬、房基、兼定、内政の5代を俗に土佐一条氏と呼んでいる。
一条房家は、文明9年(1477)父教房の没する3年前に生まれた。母は幡多の武将加久見宗孝の娘である。
一条家の家督は京都の叔父冬良(教房の弟)が継ぎ、房家は奈良の大乗院の叔父尋尊の孫弟子として出家することに決められていた。しかし、父教房の死を契機に内訌が起き、房家7、8才の頃母と共に、中村御所から足摺岬金剛福寺へ移リ、更に、清水へ逃れたこともあったのである幼い房家を中村に置くことに危険を感じた為であろう。
それより10年が過ぎ、明応3年(1494)18才で出家をやめて元服し、正五位下、左近衛少将になり土佐国司に任ぜられた。これによって、土佐一条氏は房家をもって初代としている。教房の死後、その後を継ぐようになった背景には、国人土豪が、房家の在国を望んで、働き掛けた為だともいわれている。
房家は土佐中村で飛騨の姉小路、伊勢の北畠と並んで公卿三国司と称せられ、いわゆる公卿大名として戦国の世に臨んでいった。そしてよく土佐の豪族を抑えて治安を獲得し、その威令は隣国の南予にまで及んだのである。また、都風の文化を移すと共に、通商を盛んにして財政の裕福も計った。一条家の一門並びに家老は、
「御所一人と申すは一条殿をいう。幡多郡一万六千貫(約五万三千三百石)の主にて中村に在城なり。御一門というは東小路、西小路、入江、飛鳥井、白河なり。家老は土居、羽生、為松、安並の4人なり」。(『土佐物語』)このほかに一条殿衆と呼ばれる53人の家臣団がいた。宿毛には、一条家兵伏随身武者所判官二宮房資をニノ宮城に置いて、宿毛城番とした。房家の治世45年間が土佐一条氏の最も栄えたときであった。
房家は寛仁の心の持主であった。永正5年(1508)9月、長宗我部兼序が吾川郡北部の本山茂宗、同郡南部の弘岡の吉良、香美都の山田、高岡郡の大平等の連合軍に急襲され兼序は防ぎかねて自殺したが、この岡豊落城の際、兼序は一子千雄(王)丸を家臣に托して幡多郡中村御所に送リ、一条房家の保護を求めた。
房家は、これを庇護成長させ、10年の後、永正15年に元服させて長宗我部国親と名乗らせ、父の旧領岡豊城を取り返して国親に与えた。長宗我部家再興の恩人でもあったのである。ところが、この温情が土佐一条氏滅亡の因をつくるようになったのはあまりにも皮肉てある。
房家は、正二位権大納言にまで進み、天文8年(1539)11月13日63才で中村城で死去され、法名を藤林寺殿正二品東泉大居士といい、藤林寺に葬られた今も、藤林寺境内にこけむしたる卵塔の墓石二基と五輪塔一基があるが、中央が初代房家の墓で、左右はその縁者の墓であろう。
房家像 房家の歌 一条房家の墓(藤林寺境内)
房家像 房家の歌 一条房家の墓
(藤林寺境内)

藤林寺
房家は菩提寺として平田に藤林寺を建てたのであるが、その由来については藤林寺記に次のようにある。
土佐一条殿御菩提所見立山藤林寺
一、禅曹洞開基房家卿
当寺開基道可和尚始め卓錫の地は当村菩提寺なリ。当寺より三丁余東北に当リ今に菩提寺屋敷というホノギの所に釈迦堂一宇有菩捉寺の本尊を祭なり。此の所よリ当山を見望めば無双の山色なり。房家卿道可の道徳を慕わせ給い、毎々右菩提寺へ被為入・参禅問法などし給う由申伝。然に当寺山内昔は一山残ず藤花にて房家卿菩提寺へ御入の折柄藤花の爛漫たるを右菩提寺より御覧遊ばされ御称美浅からずとかや。其の後此処へ七堂伽藍脇坊十ニケ寺御建立仰せ付けられ、見立山藤林禅寺と号を賜わり御直筆の額を掲げ寺を道可に賜って開山第一世と成し給い寺領三百石余下し置かれ、幡多七万石中僧禄所と成し給とかや。其の後天正年中土佐一条家殿御没落以後、長宗我部秦元親当国押領の砌古寺領三百石余を没収、当寺門前に於て地方三町六反寄付之所其後亦々上り地に相成り脇坊十ニケ寺も元親時代に残らず退転仕候由申伝。
藤林寺 房家奉納の画
藤林寺 房家奉納の画

野菜祭(夜祭)
野菜祭(皆山集より)
野菜祭(皆山集より)
旧暦7月16日の夜、宿毛市平田町藤林寺境内で、毎年近隣の人々を集め盛大に野菜祭(ヤーサイ)が行われる。これについて、『藤林寺記』には次のように記されている。
「御代々一条公御施餓鬼当日、四ッ時より地下役人始め旧家の銘々共御施餓鬼の席に相集り御勤行の後御供物の献残を頂戴し奉り、晩景に到り黄昏鐘百八声の内に平田村三千石中の地下人共馳集り、家々より大竹を持来り頭取の竹に新穀、茄子、不老の類を結びつけ御霊前の庭に相揃い、鐘、太鼓を打鳴らし、尊霊をすすしめ奉り、大念仏にて大竹を手々に指上げ本堂の大庭を円相に巡ること7回、此の間に「野菜、野菜」と掛声にて、漸々に巡り仕舞よリ大竹を残らず次第次第に相倒す。此の間目を驚かすばかりなり、又々鐘鼓を急切に打鳴らし責念仏数百返、以前の大竹を手々に指上亦円相に巡る事7回都合3返、37、21回目に竹を納む。是を里人共御法楽という。当村両大庄屋、地下役残らず警固厳重のお祭りなり。一条公御時代より相始まる由、今に年々替る事無し。俗にこのお祭りを夜祭と言う。又野菜祭りとも言う。往古都人鴨川の辺にて新穀、不老、茄子類の野菜を持集り亡霊を祭る故野菜祭とも言うと俗説未詳右御法楽相すみ終夜大角力近村七八里四方より男女老若共群集、賑々しきお祭りなり。一条公御時代の遺風と申伝へ一国中外に類例なし。」
また、『平田村誌』で横山重夫氏は次のように述べている。
「今迄巷間に伝わっていた野菜祭は、平田の里人が平田御殿へお出になられた一条公に身分の相違で手づからは勿体ないとて、穀類野菜類を竹に結んで贈ったものが今に伝わったものだと言っていたが、この旧記によれば由来は決してそんなものではなく、遠く一条公の時氏から京都の風を持ち来られて、これを盆の16日の施餓鬼の祭とせられたもののようである。したがって毎年おこなうこの野菜祭の時にも、竹持の音頭が、かん声を張り上げて『一条公の家例を申す』とやっていることを思い出す。成程一条公の家例としての祭を今も取リ行なっているものと思う。」