宿毛市史【中世編-一条氏と宿毛-】

一条兼定とお雪

兼定は永禄3年(1560)伊予大州城主宇都宮氏の女をめとリ、一男一女を生んだが、4年後の永禄7年に宇都宮氏の女と別れて、豊後の大友宗麟の女を迎えることになった。これが土予合戦の発端となったといわれている。
宇和郡の領主西園寺公広は土佐へ侵入したが一条氏はこれを撃退し、反って伊予に兵を向け、ここに土予合戦が展開されたのである。
この合戦は、『元親記』には永禄8年とあるので兼定がまだ23才の頃である。
この後も土予合戦はなお続き、兼定は豊後の大友宗麟に援軍を求めて、永禄10年(1567)には、伊予宇和郡の多田を討ち、翌11年には、道後の領主河野通直と伊予長浜で決戦を交え、更に元亀3年(1572)4月には、再び黒瀬城を攻めて、西園寺公広を降している。
兼定は、天文18年(1549)父房基をなくし、わずか7才の幼児であリながら、公卿大名土佐一条氏の継嗣として動乱の世に身を処せねばならなかった。兼定が幼少のため叔父(康政か)が後見役となり、兼定が30才近くなるまで実権を渡さなかった。
江戸時代の数々の著書には、兼定の素行について、
「行儀荒き人にて、家中の侍共少しの科にも扶持を放し、腹を切らせなどせらるる」(『元親記』)「生質軽薄にして常に放蕩を好み、人の嘲を顧みず、日夜只酒宴遊興に耽り、男色女色しへつらいをなし、又は山河に漁猟を事とし、軽業力業異相を専ら…(『土佐物語』)としたと、なかなか悪く記されている。しかし、これらの史料にどの程度の信ぴょう性があるかはわからないが、『土佐物語』には、お雪との情事、それをいさめた忠臣土居宗算を手討ちにしたと大きく、しかも劇的に書いているが、果たして、その通りであったのであろうか。勝者長宗我部側の旧臣による『元親記』や『長元記』には、『土佐物語』ほどの不行跡云云について具体的なことが書かれていない。あるいは、書きにくい事情すなわち、元親の立場を悪くする点があった為ではあるまいか。
『四国軍記』には、元親は土佐7郡のうち6郡まで手に入れ、残るは幡多郡だけとなったものの、幡多の一条家には知勇優れ峯居宗算が控えているので、容易に手出しができない。そこで、計略によって宗算を亡き者にすることを考え、宗算に対して、々書状を送ったり、贈物を届けたりして、殊更に親密らしく見せ掛ける態度を執った。宗算は迷惑に思ったが、元親の機嫌を損ねては一騒動起きずにはいないだろうと心配して隠忍していた。しかし、間もなく思わぬ災難が宗算の身に降り掛かった。宗算と元親が共謀して一条家に謀反を企てているとのうわさが立ち、それを聞いた兼定は、激怒して、宗算を、手討ちにしてしまった。これこそ元親思うつぼで、刃に血塗らずして幡多郡を取ったリと、ほくそ笑んだと書いてある。もしかしたらこれが真相を伝えているのかもしれない。(『中村市史』)
兼定は若いころは酒色におぼれた一時もあったかもしれないが、20才前後で伊予宇和郡の領主西園寺氏を攻め、26才で宍戸隆家、河野通直らと伊予長浜で合戦していることからみると、ただ世に伝わる軟弱一方の公卿大名ではなかったと思われる。
叔父(康政か)が、兼定が成人してからも政権を返そうとしなかったのも、若き兼定にとっては一つの憂であったであろう。元親の勢力が盛んになるにつれ、日に日に、影の薄れいく家運の挽回ばんかいに悩み、自暴自棄のあまり、平田村(宿毛市)のお雪のもとに入リ浸ったものであろう。『土佐物語』には誇張した形で、次のような意味のことが書かれている。
或日、兼定はもろもろの憂を鷹狩りにて晴らそうとして、一条氏初代房家ゆかりの平田村へ出かけて遊んだ。その帰途のどが渇き寺尾(宿毛市平田町寺尾)の百姓源右衛門の家に立ち寄ってお茶を所望した。源右衛門の娘お雪がお茶を運んだところ、兼定卿は余りにも純情そのものの可憐な姿に心を引かれ、一首の歌を詠んでお雪の手に渡した。

 汲みてこそ水はやさしきものと知る
  流れの末に逢はんとぞ思ふ

やがて読み終ったお雪は、兼定卿の意をくみとり、

 谷川の水はやさしきものなるに
  君が情けをくみて知らるる

の返歌を差し上げた。
夜の酒宴に現われた佳人お雪を一目見て「盃とり上げ給う御手わなわなと振ひ膝に盃こぽし玉う」て、たちまち深くひかれていった。かくしてお雪の酌で「歌いつ舞いつ酔い乱れ、その夜はそこに泊り玉いし。いつしか雪の下紐心も共に解けぬれば、仮初伏しの新枕、交わす間もなく明渡り」て、きぬぎぬの別れを惜しみつつ、翌日中村へ帰られたのである。
その後、兼定はお雪の恋のとりこになり、彼の近習のお気に入りを集めて、夜ごとの宴を張り鷹狩りに事よせては、平田村に出かけて源右衛門宅に泊ったのである。平田の鷹狩りは毎日の行事となり、お雪のため立派な屋敷が建てられ、人々はこれを平田御殿と称したという。そして村人たちは、時ならぬ絃歌宴楽の灯声に驚き、心あるものは一条家の前述に眉をひそめたという。兼定卿の家老土居宗算は「せめては雪女を中村御所に召され候え」と、諫めたが「政務は汝等よきに計え」と、捨鉢の答えが返り、諫言かんげんの臣にはことごとく閉門を命じた。
宗算は、この有様を見て、一命を献げて諫言しようと決意し、中村御所へ出仕した。遊蕩を止め給うか、宗算の首を刎ねるか、いずれかを選んで頂きたいと迫った。この時、兼定は老臣土居宗算を手討ちにしてしまったのである。前述したように、元親と謀り、一条家に謀反を企てているといううわさがてつだってのことであろう。
事情はともあれ、あたら忠臣を殺した兼定の短慮は軽卒のそしりを免かれない。御家の前途に望みを失った安並、羽生、為松の三家老は申し合わせて、クーデターを断行したのである。すなわち、平田通いの主君兼定を道で押えて中村御所に閉じ込めてしまった。そして、彼に隠居を迫って嫡子内政を擁立したのである。
このことを知ったお雪は、兼定を慕い「再び見奉らんことも叶うまじ、生きて物思わんよりは」と、平田の淵に身を投じた。
お雪の投身した場所は、平田の藤林寺前の川の淵であるが、現在は耕地整理されて水田になっている。水田の中に「南無阿弥陀仏」の6字の名号を刻んだ供養塔が建てられており、土地の人々は「御前が婆」と呼んでいる。
幽閉の身の兼定はこれを聞いて、大いに嘆き悼みの一首を残された。

    あかざりし人の眉根にたくへても
     名残ぞ惜しき三日月の影
お雪誕生地(平田町寺尾) お雪入水の地
お雪誕生地(平田町寺尾) お雪入水の地