宿毛市史【中世編-一条氏と宿毛-】

兼定の最期

兼定追放
老臣土居宗算を手討ちにして、ますます乱行を続けた兼定は、他の三家老羽生、為松、安並等の合議によって、天正元年(1573)9月兼定31才の時、隠居を強制され、兼定の後をその子内政に継がせ、三家老は人を岡豊にやって内政を助けて幡多の安泰を計ろうと元親に請うた。
兼定は剃髪して自得宗性と号し、中村に蟄居ちっきょしていたが、家臣たちは翌天正2年2月、兼定を竜串遊覧に誘い出して九州の豊後へ追放した。

国侍たちの動き
兼定の豊後追放を知って憤慨した加久見城主加久見左衛門尉は、平素から一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、江口玄蕃、橋本和泉、山路出雲、伊与木対馬、同左平次、上山出羽左衛門、同源助、小島出雲、和田兵衛、依岡左京、同右京進、野町四郎丸、沖長四郎、大塚八木右衛門らと謀り、にわかに兵を挙げて中村を襲い一条氏の老臣をことごとく攻め殺した。このことは、元親にとって最も望むところであった。いや、元親はこうなることを予知していたかもしれない。
元親は、この混乱に乗じ、叛乱鎮定に名をかリて中村を占領し、弟の吉良左京進を中村城番として置くと共に、兼定の嗣子内政を元親の居城に近い長岡部大津に移し、大津御所と呼んだのである。これは、元親が自らの謀叛を正当化すべく、14才の内政を引取って保護するように見せかけたもので、実は、父兼定との接近を避けるためのものではなかったかと思われる。また、元親は娘を内政の妻とした。これも、元親が娘を嫁に出して体裁のよい人質としたものではなかっただろうか。このように考えると、これらはみな元親が幡多郡侵略、すなわち、一条氏の実権を握るための策略であったように感じられるのである。
とにかく、こうなっては国侍たちも元親に従うほかはなかったのであろう。それでも、伊与田、奈良、安宗、竹葉氏等は元親に降ることをいさぎよしとしなかった。この者たちは、途中よリ元親に降って活躍した山田の小島城主小島出雲守らによって攻められ、あるいは謀略をもって殺され、あるいは追われ逃亡していった者もあった。小島出雲は横瀬中脇城主中脇左京亮、同美作守を誘い込んで横瀬の城主安宗因幡守、奈良長門入道、竹葉権頭をはじめ、山田伊与田城主伊与田淡路守等を攻め滅ぼしたのである。すなわち、まず伊与田城を攻め取って、二男の右京に与え、竹部の古殿邸宅を三男小島釆女に与えた。伊与田淡路守は城を後にして逃げた。
次いで奈良長門入道が居る横瀬の奈良城を攻略し、その余勢をかって竹葉城を攻めた。城主竹葉権頭もついに敗れ、城に火をかけ腹一文字にかき切り、この城も落城したのである。安宗城の安宗実刻がなおも元親に降ろうとしなかったので、出雲守は先に元親に降っていた横瀬中脇城主中脇左京進、同美作守と共謀し、横瀬の安宗城主安宗因幡守実刻を天正2年11月7日の夜、慶福寺に宴を設けてもてなした。宴に招かれた安宗氏は、小島氏等の陰謀を知らず、入浴を勧められるままに浴室に入ったところを、かねてよリ謀っていた小島軍に包囲されてしまった。この謀略を知った安宗氏は、もはやどうすることもできず、出雲守卑怯と叫ぴつつ、とうとう浴室で自害してしまったのである。安宗実刻の長臣玉木左兵衛は急いでこれを救おうとしたが、小島出雲守達のためにどうすることもできず、死闘して傷を受けながら、かこみを破って城に戻り、安宗実刻の妻子を殺し、城に火をつけて自害して果てたのである。この時、元親は自分の味方となって尽してくれたということで、中脇美作守に安宗城を与えている。
小島出雲守は更に北方から宿毛に進んだ。一方、依岡左京は、伊与野城主依岡右京進、佐井津野城主依岡源兵衛、田ノ浦城主増田丹後等を率いて、南方よリ宿毛に攻め入った。
元親は、小島、依岡等の、これら一連の功績を讃えて五百町の土地を与えている。
豊後に追放されていた兼定は、義父大友宗麟のもとに身を寄せていたが、天正2年(1574)ここで洗礼を受けて、ドン・パウロと称し、キリシタンとなった。そして、翌天正3年(1575)3月宗麟の絶大なる援助を受けて報復を計リ、幡多郡奪回を企てる一方、キリスト教宣布を望んで、伊予西海岸の法華津に上陸し、南伊予の豪族法華津播磨守、御荘越前守等、南予の連合軍1700余騎を味方に、十字架の旗を連わて、宿毛へ進攻し、たちどころに宿毛城等を陥し入れて、宿毛付近を回復したのである。
天正3年、兼定が宗麟の助けを受けて北宇和郡法華津に上陸して南予の諸将に救援を求めたときの触書に、
近年就動乱被盡懇意段悦喜不減。以来之干戈於方々執鎮者一城可付与者也。
    三月八日             兼定
   法華津播磨守殿
とあって段々の御厚意ありがたい。なお、この動乱をとり鎮めた者に一城を与える、という意味が記されている。
山田の伊予田城跡
山田の伊予田城跡

渡川の合戦
兼定は早速宿毛付近に学校を建てることを命じ、キリスト教の説教を始める準備にとりかかった。これを知った僧侶達は大へん驚き、元親に兼定撃退を嘆願したのである。
兼定は宿毛、平田、手洗川の兵を味方にし、伊予の兵と合せて3500余騎の大軍となり中村を奪回するために具同の栗本城に向かおうとしていた。中村城主吉良親貞は驚いて、岡豊へ急報したので元親は急きょ大軍を中村城へ差しむけたのである。こうして、3500騎の兼定軍と7300騎の元親軍は渡川を隔てて対陣し、合戦を繰りひろげたのであるが、元親軍の渡川作戦が成功し、兼定軍は戦いに敗れて西へ敗走した。世にこの戦いを渡川の合戦といい、中村の鉄橋付近がその古戦場の跡である。
「栗本の城は三日中に攻落し、西は宿毛、与州堺迄残す所無し。夫より南面は足摺辺の灘目まで悉く手に入れ云云」(『長元記』)とあるように、元親軍は更に西に進撃を続け、宿毛、平田、手洗川の兵士達もついに降参してしまったのである。
栗本城跡(中村市具同)
栗本城跡(中村市具同)

宿毛将兵の活躍
天正3年の渡川合戦で兼定軍は元親に敗れて一たん宿毛の方へ退却したが、元親軍はすかさず追撃し、またたく間に、吉奈と平田の城を攻略した。平田の布城を守っていた布玄蕃も敗れて宿毛城の支城蔵橋城に逃れた。
押ノ川城の押川玄蕃や和田城の和田兵衛も降参したので小森城や二宮城も陥落し、元親軍は宿毛に入ってきた。
宿毛の蔵橋城主蔵橋伯耆守、松田城主依岡伯耆守、来城主岸甚兵衛等は、松田川を渡って来た元親軍に攻められ、それぞれ居城を焼き払って本城山に結集して立てこもり、一条兼定を守ってなおも奪戦を続けたが、多勢の元親軍には到底勝目がないとみて、兼定を伊予に逃がしてことごとく戦死した。元親軍は戦勝に乗じて、更に宿毛西部にも攻め入り、小深浦城や宇須々木城をも攻略してしまったのである。
このとき小深浦城主山本兵庫は、小深浦城を奪われてから、なおも手兵を率いて錦の新城山に立てこもり、巧みな計略をもって元親の大軍を2か月余りも苦しめたが、頼みとする伊予の援兵が遅れた為、ついに兵糧もつき果て、城兵はみな、これまでと覚悟して頭に花を飾って新城山をかけ降リ、既に元親軍の拠城となっていた貝塚城に突進して悲壮な戦死を遂げたという話も伝わっている。宿毛付近には、頭に花を飾り太刀や槍をもって踊る慣例があるが、この時の戦死者の霊を慰めるために始まったものだという。
『宇和旧記』によると、御荘勧修寺氏の武将尾崎藤兵衛が、渡川の戦いで手柄があった。藤兵衛は宇須々木の新城の戦いで、敵将近藤三河守を討ち取り、小島右近を生捕って、一条康政より感状をもらっているとある。
今度於新城戦功無比類之旨神妙之至近日御進発之条可有御褒美者也
 仍執達如件
    八月七日
                     康政(花押)
  尾崎藤兵衛尉殿
また、『伊予国・南宇和郷土史雑稿』などにも、御荘勧修寺氏の武将で城辺の永の岡の尾崎藤兵衛が宇須々木の新城を守っていたとあり、当時御荘勧修寺氏は、宿毛付近に新城と称する出城を有し、宇須々木村の内、大深浦、小深浦、錦、樺などに千石の在所をも領有していたと述べられている。『河野家人数巻』には、勧修寺氏は、宇和郡の旗頭西園寺家の七人衆で、大森、本城、緑城、新城、猿越の5か所の城主を兼帯していたとある。また『宇和日記』には、御荘殿は本城のほかに大森城、今木城、鳶巣城、猿越城を持っており、その他に、新城が土佐の宇須々木にあったとある。『長元記』にも、御荘越前守が、国境の監視城として新城を持っていたことが記されている。
さて、尾崎藤兵衛が守っていたという宇須々木の新城というのは、宇須々木城のことではなく、恐らく小深浦背後に聳える新城山の峯にあったという新城のことではなかろうか。当時、大深浦、小深浦、錦、樺、宇須々木を含めて宇須々木村といっていたから宇須々木の新城といってもさしつかえないのである。
土佐側の資料によると、当時山本兵庫は小深浦城主であったことがわかり、天正3年5月元親軍に攻められ落城し、手兵を率いて新城山に籠城して、奇計をもって、長宗我部の大軍を2か月余りも支えたといわれるから、元々、新城は南予の尾崎藤兵衛か守っていた城かもしれない。兵庫は自城を落とされたため、近くの味方にあたる新城に引きこもって南予兵とともに元親軍に応戦したのであろう。
なお、宿毛本城の落城にあたって、次のような哀れな物語も伝えられている。
渡川合戦で敗れた兼定は、宿毛まで退却して本城にこもっていたが、元親軍の猛攻にあって危地に陥った。この時、兼定は味方の兵士に守られ暗夜を利用して伊予へ脱出しようとした。まず宇須々木まで行って身を隠そうとしたが、途中に居る錦城主立田九郎右衛門が元親軍に降ったことを聞いて、道を南へ変えて、田ノ浦に出ようとした。ところが、ここでも田ノ浦城主増田丹後が元親に降っていたことがわかり、ひそかに依岡右京進のいる伊与野城まで向かおうとした。依岡右京もこれまた、元親に味方しているということがわかって、やむなく内外ノ浦から漁船に乗って、やっとのことで伊予の戸島へ落ちのびることができた。
 港なる内外ノ浦の船よりも
  泊り定めぬ我が身なりけり
これは兼定が逃れていく船の中で詠んだ一首であると伝えられている。
この時、平田布城から蔵橋城に身を移していた布城主布玄蕃も14、5才の2子を連れて兼定一行に加わって逃れようとしていたが、布玄蕃は蔵橋城を出た途端に元親軍の追手の矢に当たって倒れてしまった。そのために2人の兄弟はお供の者達にはぐれて道に迷い、内外ノ浦に出たときには、既に兼定一行が出帆した後であった。兄弟は直ちに小舟を借りて後を追ったが、途中大島沖あたりで波をくらって舟が転覆したので兄弟は咸陽島まで泳ぎ渡り、ここで漁貝をとって命をつなぎながら、伊予への渡り船の来るのを待っていた。ところが運悪く漁夫に見付けられて密告されてしまい、兄弟はついに捕えられてしまった。元親の兵士も、まだ年のいかない兄弟をみて忍びなく思ったのか、再三降伏を勧めたが、兄弟は頑として聞かなかったので、とうとう打首にされてしまったという。この兄弟の名を右京、左京というが、2人の墓らしいものが今も小筑紫町湊にあって、右京神、左京神として祭っている。
ともあれ、宿毛勢も最期まで奪戦死闘したのであるが、ついに元親勢の前に敗れてしまい、芳奈城には十市備後守、宿毛には長宗我部右衛門大夫が入城して守ることになり、続いて後に、野田甚左衛門が城番となったのである。
長宗我部元親の幡多進駐は、いうまでもなく国盗りがねらいであり、土佐統一を維持していくためはもちろん、四国攻略を目指すためにも、家臣の生活基盤である土地領有が何といっても必要であったわけである。元親は一条家臣の所領を没収して自分に忠義を尽した者に給与する論功行賞を行なったことが長宗我部地検帳でも明らかである。
新城跡(錦字中尾) 蔵橋城跡(宿毛字城山) 左京・右京の墓(小筑紫町湊)
新城跡(錦字中尾) 蔵橋城跡(宿毛字城山) 左京・右京の墓
(小筑紫町湊)

戸島の兼定
戸島の全景
戸島の全景
兼定は伊予の戸島まで引き上げ、再挙の日を待つことにした。兼定がこの島を選んだ理由はいろいろ考えられようが、絶好の隠れ場所であったこと、近くに彼に対して好意的であった法華津氏などがいたことからではなかろうか。
この頃、兼定はひそかに宿毛、平田方面に帰り、旧臣達を糾合して戦力再建策をたてていたという。(『戸島と一条兼定』)
地検帳などによると、法華津氏は一条氏から幡多郡西部で多くの土地を与えられており、また、中村御所に近い不破村や宇山村にも給地を持っていたほどであったから、兼定を大いに歓待し、幡多郡奪回に協力したのであろう。
さて、伊予の戸島へ逃げのびた兼定は、法華津氏の庇護を受けていたが、復讐ふくしゅうの念あきらめきれず、ひそかに中村の国元へ使者を出し、一門の家臣等と再会し、策を練ったのである。その時に集まった面々は、冷泉院白川、中御門侍従経弘卿、飛鳥井雅貴卿、西小路、東小路、宮下小路等であった。一方、これに加えて南予の諸将にも働き掛け、漸く再起の体制づくりが進められていたのである。(『戸島と一条兼定』)
兼定のこのような動きは、元親にとって四国統一の野望達成に妨げとなるところであった。そこで、元親は先手をとり、かねてから甘言をもって誘惑していた兼定側近の入江左近に、兼定暗殺を請うたのである。「目的を果たしたならば恩賞を与える」の条件をつけて、謀略をたてたのである。
入江左近は海を渡り、伊予の戸島に隠住する兼定を訪ね、お家再興に力添えしたいと何食わぬ顔で申し上げた。兼定は大いに喜び、夜更けまで歓談した。やがて、寝所に引き揚げ、隣室で兼定の寝息を伺っていた左近は、深い眠りの頃合いを見計らって兼定の寝所に踏み入り、切り付けた。『四国軍記』によるとこの時、兼定は左近の二の太刀で左肘を打ち落とされたとある。それでも兼定はひるまず一太刀を報いたが、惜しくもかわされて左近は逃げて行った。左近は、海辺につないでいた小舟に飛び乗り、沖へ向かって漕ぎ出ていった。兼定の家臣たちが追いかけたが、他の舟のとも綱をことごとく切られて沖合へ流されていたので、どうすることもできなかった。
一方、入江左近は元親のもとへ帰リ一部始終を報告したところ「主君を斬った大罪人は生かして置けぬ」と、即刻打首にされたという。甘言に乗せられた左近こそ哀れである。元親の陰謀でここでも1人の生命が断たれたのである。(門戸島と一条兼定』。フロイス『日本史』)
兼定は深手を負っていたが、一命は取り止めることができ、その後徐々に復し、病弱ではあったが、その後8年間も生きており、深い信仰生活を送っていた。
戸島で養生の日を送っていた天正9年(1581)ごろ、兼定は巡察師パードレ・ヴァリニアーニの一行が土佐沖を回って豊後に向う途次、不具の身でありながら面会し、大いに満悦したと伝えられている。松田毅一氏は、このとき兼定がヴァリニアーニに逢った所は「城辺、宿毛辺りであろう。巡察師はこの辺りから豊後水道を横断しようとして戸島の兼定を呼びにやり、彼が小船で来たと考える」と述べている。
兼定の隠棲地は、日本側文献では戸島と明記してあり、欧州側文献では島とか―兼定書状にはナガシマとなっているが、恐らく伊予宇和島港外の戸島に間違いなかろう。彼は天正13年(1585)元親と秀吉との戦いの間に熱病のためこの島で悲運の生涯を閉じたのである。「南の方、元親の居城をにらみ憤怒し瞑し給いぬ」(『戸島と一条兼定』)という。
戸島の竜集寺境内には、兼定の墓石があり、島内には兼定にちなむ幾つかの名称が残っており、今なお島民敬仰の的となっている。ことに、島民が一条公の墓所に詣で、俗に「一条さまのお水」を聖なるものとして、この水で洗うといぽがとれると言い伝えており、今なおこれを行なっているのは興味深い。
兼定の前半生は諸書によって伝えられているように淫蕩的なものであったかも知れないが、晩年キリシタンに改宗してからは、欧州文献の述べるように善良敬虔なる日常であったに相違なく、戸島々民の今なお変わらぬ敬慕は、その間の事情を推察せしめるに足るものがある。

戸島龍集寺山門 兼定の墓所
戸島龍集寺山門 兼定の墓所

内政と政親
兼定の息子内政は、天正8年(1580)波川玄蕃が元親に叛いた事件に関係があったということで、元親によって伊予に追放された。そしてその死亡については病死説と毒殺説が伝えられている。父子2代にわたる元親の陰謀である。その子政親は長岡郡久礼田に住んで久礼田御所と称されていたが、慶長5年(1600)長宗我部氏没落によって解放され、京都に上ったという説があるがはっきりしたことはわかっていない。土佐を去って行ったことには間違いなかろう。これにより、土佐一条氏も房家から6代百十余年をもって全くその跡を絶ったのである。