宿毛市史【中世編-一条氏と宿毛-】

一条氏と山田村八幡宮

山田村八幡宮の神社由緒書や土佐国山田村正八幡宮伝記によると、一条房家公が京都より中村に下国された時、山田村八幡宮を造営して、幡多一郡の総鎮守とした。一条氏代々この八幡宮を厚く尊宗されたと次のように、伝えられている。
応仁元年(1467)から文明年中にかけて、山名宗全と細川勝元が争いを起し、京都は大擾乱となり、このため危険を感じた一条房家は土佐国へ移ることになった。
摂津の兵庫の浦より船に乗って出帆したところ、時ならぬ大風に遭い、船は危くなったが寄るべき港もなく大変心配された。そこで、八幡大菩薩に波が静かになるように心をこめてお祈りしたところ、神のご利益によって豊前の国門司ノ関に漂着することができた。
神のご霊恩の有難さが肝に徹し、お参りして神官大宮司に懇ろに話した。そこで大宮司よりご守護としてご神体の金の鳩と玉石2枚を一筥に蔵めて頂き、船を整えて帰途に向かい、順風にのって程なく幡多郡下野加江浦に着岸することができた。
このとき、近里の国士下野加江、大岐、加久見、立石、江口、橋本らにたのんで同里の縁津居エンツイ(今の尾形=御館)に隠蟄いんちつされた。(旧跡今に有る)
京都が穏やかになってから、土佐国の守護職が将軍足利義政へ房家を国司にされるよう強くお願いしたので、将軍もこれを勧め、天皇もお聴きになられたので、ついに土佐国司の宣旨を頂くことになり、土佐7郡の国司達へ命令を下して中村へ入城されることになった。
さて、門司の大宮司より頂いたご神霊を城中にお祭りするのはもったいないということで、城外へお祭りすることになった。入江伊勢守が奉遷の旨の命を受け、幡多郡の諸郷を見回って、宮処によい所を求められた。山田郷の若宮神社が優れた霊地であるということになり、若宮神社を坤ノ嶺(柴岡の峯)へ移し、この跡地に瑞殿を造営し、長享2年(1488)6月15日にご神霊を奉遷し、幡多一郡の総鎮守とした。以後、入江伊勢守が神主として仕え、その子孫が現在の宮部氏であると伝えられている。
この、神杜由緒書や伝記によると、一条房家が京都の戦乱を避けて、土佐幡多郡中村へ下向され、幡多郡山田村に八幡宮を造営したと伝えられているわけであるが、京都の戦乱(応仁の乱)は応仁元年(1467)より文明9年(1477)までの11年間にわたって繰り広げられており、房家は文明9年に中村で生まれたということになっているので、(『大乗院寺社雑事記』)彼が京の応仁の乱を避けて土佐国中村へ下国したというのは年代的に合わない。また、山田村八幡宮の造営は長享2年(1488)と伝えられている。房家は明応3年(1494)18才で中村において元服しているので、房家の元服前の造営とは考えられない。従って、由緒書や伝記で伝えられている山田村八幡宮の造営を房家とするのは怪しくなる。
ちなみに『土佐一条五代史略撮要』をみると、次のような内容が記されている。
教房(房家の父)は応仁2年9月6日京都の乱を避けてひそかに土佐の領土幡多郡に渡ろうとして暴風雨に遭い、豊後に漂着した。ちょうど、港上の辺りに八幡宮があったので祈誓してたちまち霊験を被り漸く土佐に渡ることができた。この時、従臣の宮部和泉守藤原正光にそのご分霊を土佐幡多郡山田村に鎮斎させた。すなわち、今の山田村八幡宮であり、関白教房公の勧請したものである。(中略)時の大樹義政その子将軍義尚等に土佐国司たらんことを切望した。義尚等は天皇に伺い、直ちに勅許を得た後、土佐七守護等に教書を下し、一条殿を土佐国壱万六千貫の領主として下向させた。
これによると、山田村八幡宮の造営は房家でなく父教房となっている。
しかし教房にも疑問の点がある。教房は応仁2年9月6日弟の居る奈良の興福寺より泉州堺に向かい、同月25日ここから土佐の豪族大平氏の船に便乗して翌26日に安芸郡甲ノ浦に着いている(『大乗院寺社雑事記』)。このとき、途中暴風雨に遭って豊後に漂着したとすれば、土佐到着は遅れることになり、大乗院寺社雑事記の日程と合わないことになる。
房家の場合は、時々上京しているので、もしかすると、その間に起きたものかもしれない。
いずれにしろ、この両人のうちのいずれかの造営とみて間違いなかろう。
ところで、幡多一郡の総鎮守を本領中村の地に置かず、なぜ山田村に置いたのか、多分深い考えがあってのことと思われる。由緒書や伝記にみられるような「美き宮処」というだけの理由で山田村に造営したとは考えられない。教房にしても房家にしても共に優れた政治家でもあったので、あるいは、幡多郡西部の地の重要性を考慮して、この地に幡多一郡の総鎮守を造営したのではなかろうか。
更に、由緒書や伝記によると、房家、房冬、房基、兼定と4代にわたって山田村八幡宮をご尊宗されたとある。
元亀2年(1571)6月15日、兼定はお供をつれて当社へ参詣されている。供奉の人数は先駈に小島出雲守、ご剣役に岡光千代熊、山本金三郎、ご調度の役は難波刑部助、ご走役に柴岡尾張守、中脇但馬守、ご門葉飛鳥井虎熊、中御門河内守、ご武臣土居宗算、依国左京進、入江刑部少輔、本結筑後守、安宗因幡守、奈良長門入道、伊与田淡路守、小島伊賀守、竹葉権頭、黒川和泉守、同長門守、中脇左京祐、布野尾張守、国見弥総太、川淵越前守、そのほか近里の国士一領具足が行粧して警衛し、懇祈奉幣、神楽を奏して種々奉納事をして終り、宮下上野守の嫡男伊豆守忠倫が幡多一郡の祠官の統領を被って社殿頭の名目を頂いたとあり、一条家をはじめ国士達が山田村八幡宮を深くご尊奉されたことが伺えるのである。
一条家没落後も国士達が長宗我部元親公へ歎訴し、天正5年6月に八幡宮の神領を先例のとおりにしてもらい、更に社領八町六反が増加され、安堵のご判を頂戴している。
山田八幡宮(山田) 山田八幡宮祭礼行事
山田八幡宮(山田) 山田八幡宮祭礼行事