宿毛市史【中世編-一条氏と宿毛-】

一条家家臣と給地

宿毛市関係の地検帳によって一条氏関係の家臣であったと思われるものを拾い出してみると、およそ300人余リいることがわかるが、これらの者総てが宿毛市地域に居たものでなく、中には「宗三分」「西小路分」「安並分」「東小路分」「上居分」「国見分」(以上中村市関係か)、「佐井津野分」「柏島分」(大月町)、「加久美分」(土佐清水市)、「法華津分」(伊予)、「臼杵分」(九州)と思われる者もいる。この中には法華津氏(伊予法華津城主か)や臼杵氏(豊後国主大友氏家臣か)のように一条氏の家臣ではなかったと思われる者もいるが、300人余りのうち大多数の者は宿毛地域にいた一条氏の家臣とみてよいのではなかろうか。「分」に見られる者のうち宿毛市において所領の多かった者を取り出してみると、次のとおりである。

 氏  名   地    高 筆数          適             用         
町 反 代 歩
岡   分 20、7、48、0 243 吉奈村岡城主岡大和守輝之か、吉奈、ニノ宮を中心に散在
大深浦分  9、8、23、1 165 大深浦城主か、宿毛西分に集中
倉 橋 分 10、3、23、4 45 宿毛蔵橋城主蔵橋伯者守か、宿毛、坂ノ下、大島、中角に散在
黒 川 分 18、0、30、3 208 平田黒川村領主黒川長門守か、平田を中心に散在
小深浦分 10、0、32、0 126 小深浦城主か、小深浦を中心に付近に散在
島   分 34、4、 5、1 57 宿毛西部に散在
白河(川)分 11、6、25、4 109 一条氏一門白河氏か、旧宿毛郷全域に散在
宿 毛 分 72、4、45、4 600 旧宿毛郷全域に散在
奈 須 分 19、8、49、5 116 奈須氏旧宿毛郷の要所に散在
高 芦 分  7、3、27、1 59 高芦村(高石)領主ともいうが 二ノ宮、和田に散在
布  分 19、2、34、2 250 平田戸内村布城主布玄蕃か、平田、藻来津に散在
福井太覚分 45、5、 6、2 500 福井右京亮惟宗忠能の子ともいうが、旧宿毛郷全域に散在
平 内 分 17、8、 3、3 206 平田の戸内、平田を中心に散在
町  分 10、3、18、4 68 二ノ宮高田村町土居主ともいうが、宿毛川西に散在
若 藤 分 12、1、45、0 119 平田戸内村若藤城主若藤右近将監か平田の要所に散在
市 山 分  4、2、30、2 32 一山村領主一山藤助か、押ノ川西部に集中
錦  分  3、5、10、1 48 錦城主立田九郎衛門か、宿毛西部に散在
椛  分  3、4、19、1 49 宿毛西部に散在
依 岡 分  3、1、16、4 33 依岡伯耆守か、和田、ニノ宮、吉奈、平田に散在
伊与野分  2、9、 7、5 49 伊与野城主依岡右京進か、平田、宿毛の中心部に散在
米 津 分 14、0、33、4 191 米津山城守ともいう、吉奈、平田、宿毛に散在
法華津分  7、8、38、4 77 伊予法華津城主法華津播磨守か、宿毛西部に散在
宗 三 分  5、6、21、1 51 一条氏家老土居宗算か、山田、平田に散在
津の崎分 17、1、19、2 192 津野崎太郎左衛門景冬ともいうが、平田を中心に散在
西小路分 13、3、21、4 143 一条氏一門西小路氏か吉奈村を中心に散在
安 宗 分  5、0、14、1 37 横瀬安宗城主安宗因幡守実刻か山田郷を中心に散在

これらの人物が誰であったかは今総てを明らかにすることはできないが、摘要欄に示したように、あるいはそうではなかっただろうかという形で記してみた。
さて、宿毛市における300人余一条氏家臣達は、長宗我部元親の幡多占領によってそのほとんどの者が、所領を没収されたことが、地検帳によって大体わかるのであるが、一部の者は、元親より旧領を安堵され、また給地変更や増給されたと思われる者もいる。これらの者は、途中より元親に降った者達である。今その人々を列記すると次のとおりであるが、ただ、地検帳の「分」によって調べた者が多く、例えば姓名とも明確に記されている「山本磯進分」の如きは疑う余地もないが、「重松弥三大夫」の如きは「重松民部介分」と別人かとも思われるが宿毛市関係の地検帳によると「分」の方にも「給」の方にも重松という姓はただ一人しか出てこないので、「重松民部介分」は重松弥三大夫ではないだろうかということにして取り上げることにした。また、「押川分」「増田分」を押川玄蕃、増田丹後と把あくしたのは、このような姓が、他に極めて少ないことと、彼等が一条氏に仕えて、それぞれ城主の地位にあったことから判断したものである。小島出雲守については、「小島分」の外に「小島○○分」が10人程度いるが、「小島分」と、名前の記されていないものは小島出雲守と判断した。小島出雲守についても天正2年に元親の家臣に転身する前は一条氏に仕えていたことが明らかであったからである。

一条氏家臣で元親に仕えた者の一覧表(宿毛市関係分)
氏  名 一条氏時代所領 長宗我部地検帳給地 摘      要
町 反 代 歩 筆数 町 反 代 歩 筆数
○ 山本磯進    4、45、1    8、14、0 山田に主居
○本結新介    5、 4、5 14、1、11、4 160 山田に主居
○中脇伊賀守    1、 5、0    3、35、0  
○興左馬進    5、24、4      20、0 中村衆
○河淵佐渡守    3、15、2    5、40、0 横瀬衆
 小島出雲守  1、0、 6、2 13 55、6、40、2 678 もと山田村小島城主天正2年元親の家来に転身、橋上村に主居
 押 川 玄 蕃    2、33、1  9、0、24、2 109 押ノ川城主、天正3年元親に降る押ノ川村に主居
 増 川 丹 後  1、8、44、4 17  5、6、22、1 79 田ノ浦城主、天正3年元親に降る田ノ浦に主居
 宗竹助左衛門    1、 0、0  1、2、20、3 13  
 近藤太兵衛    1、10、0  4、1、45、5 36 幡多郡奉行。「秦氏政事記」に七町五反二十八代所領とある。
 和 田 右 近    8、 1、2  6、3、 8、3 48 天正3年元親に降るか、和田城主和田兵衛の嫡男ともいう。和田居
 岡 添 備 後    5、25、2      38、1 番匠、押ノ川居
 北本源左衛門    1、27、0  7、1、 1、4 50 和田右近の配下で和田北本村土居主という。北本に主居
 西田内蔵介    6、48、4  2 5、28、5 22 依岡衆か、刀祢
 蔵本平衛門    3、30、0  2、2、13、1 25 平田衆
三浦助左衛門
 
(旧中脇亀千氏)
   3、25、3 13  2、1、47、4 23 三浦宗見の養子となり改名興島に居
 松田伝大夫    6、15、0 13、9、 5、4 94 松田城主松田兵庫の一族か、宿毛延明寺村に主居
重松弥三大夫
    (宗)
   1、 5、0  2、9、16、5 30 松田村重松屋数に居。宿毛主要地に所領

※氏名の頭に○印のあるのは、確実な人を表す。
※旧領が果たしてこれくらいであったかどうか疑問の者もいる。興氏や河淵氏のように中村市関係と思われる人は中村市方面に土地を所有していたのではなかろうか。

表によると、ほとんどの者が旧領より多い土地を給与されているが、恐らく元親に対する忠節の現われであろう。
この外、伊与野城主依岡右京進(近江)も、天正2年に元親の家来となり、広大な土地を給与されていたが、依岡右京進は天正14年(1586)に戸次川で戦死しており、検地前に死亡していた為であろうか地検帳にはみえない。
まだこのほか、それらしいと思われる者が20人近くいるように思われるが、極めてあいまいなので取り上げないことにした。そのほかの者は元親より、総て没収されたものか宿毛市関係の地検帳の「給」人のなかには出てこない。
このように所領の総てを没収された一条氏家臣達は一体どうなったのだろう。知りたいところであるが、彼等の行方について、はっきりしたことはわからない。
『高知県史』によると、元親は昔からの小領主級の豪族であった在地勢力の所領は逐次削って功臣に分与した。その処置は一部「地替」によって成しとげたが、旧豪族の伝統的所領を総て否定することができなかったので、ある程度の保有を許し、彼等を家臣団の中に組み入れたのである。これは元親が戦争を遂行し、領国の経営を行う場合、旧勢力を自己の陣営に吸収することが得策だったための処置に出たものだろうという意味のことが記されているが、これに関係すると思われる者に、例えば平田村に4町1反45代5歩の土地を領有している幡多郡奉行の近藤太兵衛がいる。彼は一条氏家臣で旧豪族であったものか宿毛地検帳に次のように記されている。
 一所 四十九代壱分 下畠 宿毛内野村土ゐ分
 小松左近衛門給
  近藤太兵衛地替
 一所 壱段六代 下畠 宿毛シヒセ村
 小松左近衛門給
  近藤太兵衛地代
 一所 壱反三十弐代二分勺 同 土ゐ分
 小松左近衛門給
  近藤太兵衛地代
このように近藤太兵衛の地替(代)とあるのが、他にも数件みられる。このほかにも数人「地替」人がいるのである。
これによると、近藤太兵衛は旧豪族であったとみられ、元親は元の在地土豪と妥協する形で彼等を吸収し、自分の勢力を伸ばすために適当な保護を加えたものと考えられ、ここにも元親の巧妙な軍政がみられるのではなかろうか。 ところが同じ「地替(代)」をした者でもついに削り取られてしまったと思われる者もいたようである。宿毛村地検帳に次のようにある。
 一所壱段壱歩勺 下 吉奈衆 宿毛稗田村 西田分
 楠瀬与衛門給
  島村左兵衛地代
 一所 壱反三十代出弐十壱代 中 同
 大高坂左衛門尉給
  中村□駄地代
島村左兵衛や中村□駄は「給」人のなかにはみられない者で、これらの人々は、ちびりちびり削り取られ、ついに全部を没収されて、転落していった者達ではなかっただろうか。このような形で転落した者、初めから総てを没収されて転落した者はどうなったのであろうか。次にそれを考えてみよう。
宿毛市の地検帳によると、例えば、「竹葉関兵衛扣(作)」というのがみられる。この中、左記の人々は「竹葉分」のように「分」にみられる人々で、もちろん「給」人のなかにはみられない有姓者であることから一条氏の遺臣と考えてよい者達ではないだろうか。恐らく、持地の保有権(扣)や耕作権(作)を許され、農民に転落して農業に従事していた者達ではなかっただろうか。あるいは直臣に仕えていた「またげらい」達であったかもしれない。

道河村 竹葉関兵衛扣        同(平田村)蔵本口衛門扣
今御直分        今散田
吉奈村 久礼雅楽居        天神村 本 永瀬惣左衛門分
岡宗右衛門給                宗左衛門作

        弘井新兵衛給
このような「扣」「作」の形をみると、戦国時代における農民(業)構造の一端も伺えるように感じるのであるが、元親は秀吉との戦いに敗れてより、専門武士の強さを痛感して、これまでの兵農未分離、つまり一領具足べったりの農民的兵士の存在を少しでも改めようとしたのであろうか。