宿毛市史【中世編-長宗我部氏と宿毛-】

元親の南予攻略

土佐統一を終えた元親は、戦功のあった家臣たちに酬いる土地が必要であったが、山岳地帯の多い土佐国だけでは家臣に与える扶持も極めて不十分であった。元親が四国平定の決意をするに至ったのも、このような必要に迫られた問題があったからではなかろうか。
元親は、土佐統一を終えるとすぐ、阿波、讃岐の攻略にかかると共に、伊予攻略を始めた。ことに、土佐の西部にある幡多地方は伊予と境を接していたこともあって以前からこぜり合いが続いていた。
元親は天正4年頃より予州進出を計り、まず、土佐との境にある宇和、喜多両郡の諸城を攻め落とし、大津城(大州城)の大野直之と結んで、河野氏等の拠る北宇和郡へ向かう態勢をとるようにした。ところが、伊予の大御所北伊予の河野通直が中国の毛利氏の援助を受けて大野直之を討ち破ったので、元親の伊予攻略も容易ではなかった。
ちようどこの頃、織田信長が中国征伐にのり出したので、毛利氏は伊予に送っていた兵を引き揚げることになった。元親はこの機に乗じて、まず、南予の豪族津島氏、北之川氏、御荘氏等を攻めて降伏させたのである。

宿毛将兵の活躍
さて伊予攻略には宿毛将兵の活躍が大きかったのである。
元親は阿波、讃岐の平定を進めると共に幡多、高岡両郡の兵12,000余りをもって伊予攻略に乗リ出した、鍋島城番桑名弥次兵衛、佐賀城番光富権之助、吉奈城番十市備後守、宿毛城番宿毛右衛門大夫等を先鋒として、天正4年1月頃から宇和郡喜多郡方面へ進攻して河後森かごのもり城等を攻めた。この付近は山岳が連なって険しいところが多いため、元親軍も進撃に苦労した。逆に伊予軍はこのような地形を利用して盛んにゲリラ戦術を用いて攪乱戦法を計ったので、元親軍も阿波、讃岐の攻略戦のように思うような戦果を挙げることができなかった。これは、1つには、南子の諸将が一条兼定に味方して苦杯をなめていたため、元親軍に対する決死の反抗に出たものと思われる。こういった状態で、元親軍もやむなく持久作戦をもって臨むことにした。『長元記』によると、このあたりは山々で、敵の侍は下々まで鳥撃ちなどして鉄砲撃ちが上手で、そのうえ、険しい山ぱかりで、攻めるのに難かしい所である。四国の大部分を手に入れたように容易に敵を降参させることができなかったため、麦や稲を薙ぎ倒したり、村々に放火して敵の疲弊をうかがい、城を二方三方より囲んで、機を見て一挙に総攻撃をかけやっとのことで降参させることができたとあり、この方面の攻略の苦心を物語っている。
 このような苦心のなかで、南予の攻略も進みかけたので、元親は、天正6年久武親信を幡多南予2郡の軍代としたが親信は、天正翌7年6月岡本城を攻めたとき土居清良のために討たれ、この時元親軍は大失敗したのである(『土佐軍記』『宇和旧記』)。元親は親信の後任として親信の弟親直を伊予の軍代として命じ、親直は天正9年1月依岡氏等幡多の将兵を率いて伊予三滝城を攻め、三滝城主北之川親安を攻め滅ぼし(『清良記』)、続いて翌 10年2月に三間郡の高森城を攻めた。この時、宿毛右衛門大夫、十市備後守も参加して大いに活躍した。しかしこの合戦では敵の策略にかかり、元親軍の作戦はことごとく失敗した。この時元親軍は一時危なかったが宿毛右衛門大夫の武勇によって、ようやく難を逃れることができ、元親軍は一たん土佐へ退却したのである(『南海通記』、『四国軍記』、『清良記』)。

緑城、御荘城攻略
『土佐軍記』や、『長元記』などによると、天正11年(1583)御荘越前主は、元親軍が高森城攻めで敗退したので勢いを盛り返し、近在の将兵を集めて宿毛の国境に迫ろうとした。吉奈城番十市備後守はこの動きをいち早くつかみ、元親の命を受けるや策をもって国境の小山付近から伊予に潜入し、御荘越前守の部将板尾津之輔が守る猿越城(一本松町)を暗夜に奇襲し、一夜のうちに敵兵数百人を全滅させた。今一本松町の札掛に千人塚があるが、この時の合戦の跡を伝えるところだといわれている。
宿毛右衛門大夫は、吉奈の十市備後守が猿越城を攻めたことを聞いて、吉奈より近くの宿毛にいながら十市氏に先を越されてはと、急いで手兵を率いて緑城へ向かい、3日のうちに緑城を攻め落としてこれを抜いた。続いて、大森城、鳶巣城をおとしたが、御荘勧修寺軍は本城(常盤城)に集結して防戦の用意を固めて反撃に出たため、御荘氏が立てこもる本城は容易に陥し入れることができなかった。元親は、これを聞いて十市備後守に加勢を命じたが、なおも宿毛右衛門大夫、十市備後守の手勢だけに任すことを不安に思い、桑名弥次兵衛、光富権之助等幡多郡より組頭4人都合一万余りの大軍を南予に差し向けることにしたのである。こうして、長宗我部軍は多勢をもって御荘勧修寺氏がたてこもる本城を包囲したのであるが、それでも容易に陥し入れることができなかった。そこで、宿毛右衛門大夫が味方の諸将兵へ次のような提案をして同意を求めることにした。
御荘本城内には各支城から集められた多数の兵士によって防備が固められているので、いかに勇猛な土佐勢が、繰り返して攻め寄せても簡単に攻略することはできまい。むちゃに攻めても、却って味方の兵を損するだけだ。こうなれば持久戦法をとる覚悟がいる。御荘本城の近くに付城を構え、周りを取り囲んで警戒体制を布いておけぱ、味方の兵が多数いなくても、敵に与える影響が大きいから、この場は宿毛右衛門大夫の軍勢だけで事足りる。旗本の将士引き揚げて然るべし云云。ということで、その後は宿毛右衛門大夫が御荘本城攻めの大将として任されることになった。 こういうわけで、御荘本城より15町程隔てた所に昼夜を分けず19日間(『南海治乱記』)かけて向城(通称一夜城という)を築き、ここへ宿毛右衛門大夫をこもらせて本城の包囲を解かずに厳しく監視を続けた。
このような状態が1か年間も続いたので、御荘勧修寺軍はついに食糧もつき果て、どうすることもできなくなったので、天正12年2月、人質を出して降参したのである。
元親は、開城後も領地、領民はもとのままの政治を続けるように許したようである。
天正12年の春、宇和郡の旗頭西園寺公広もまた、元親に和を乞うに至ったことが元親より法華津播磨守へ宛てた、次の書状で伺えるのである。(『法華津文書』)。

今度西園寺殿御一致儀、併各御取成故候歟令祝着候、於後々耶不疎略之条、無御隔心御入魂所仰候、仍太刀一腰、馬一疋進入之候、猶使僧可申達候、 恐々謹言。
 卯月十一日        元親(花押)
 法華津播磨守殿
            御宿所

この頃、元親は阿波、讃岐の攻略戦を終えていたので、3万余りの兵を伊予に送り込み同年7月三間郡の諸城を陥し、進んで翌13年1月に道後の河野通直を攻めて降した。伊予攻略には一進一退があり、元親軍も多数の犠牲者を出したのであるが、これでようやく10年を経て伊予攻略を終えることができ、事実上の四国制覇を成し遂げたのである。

猿越城跡(一本松町) 緑城跡(城辺町緑) 御荘本城跡 一夜城跡
猿越城跡(一本松町) 緑城跡(城辺町緑) 御荘本城跡 一夜城跡