宿毛市史【中世編-長宗我部氏と宿毛-】

元親の城番と属臣

天正3年幡多を占領した元親は、降伏した者には旧領を安堵させ、反抗した者の旧領を没収して属臣に分配し、ことに一族や重臣を重要拠点に配して統一を固めようとした。宿毛市関係分の元親の主な家臣をあげてみる。

小島出雲守
小島出雲守はもと山田小島村城主で、一条氏に仕えており、一条家国侍36人の中の1人であリ、一条家殿衆53人の中の1人でもあった。
一条氏の国侍の中でも武勇で名高い小島出雲守であったが、家老達が主家の安泰を図るためといって兼定を豊後へ追放してしまい、これを知った国侍達は、家老達の処置を憤り、加久見・小島・依岡等の国侍は急遽兵を挙げて家老達のいる中村城へ討ち入りをかけ、家老達を滅ぽした。
この戦いが終ってから、中村の城には元親の実弟吉良左京進が入城したが、小島出雲守・依岡左京進は完全に元親の家来となってしまった。そして、この余勢をかりて付近の一条氏の重臣をも襲い、天正2年の暮れまでにはこれらの城全部を攻め落とし元親から恩賞として田五百町歩ずつをもらっている。小島出雲守は、天正15年(1587)小島城を嫡男民部祐政倶に譲って、自分は橋上村のイロシロに移った。後居館を橋上土居ヤシキに移している。地検帳にも橋上の村々で広大な土地を有していたことが記されている。彼は天正19年に病死、墓は橋上村清学寺にある。碑面に「小島前雲州大守橘政章覚厳院松風涼載大居士、天正9辛卯6月12日」とある。『南路志』にも「墓ハ橋上郷清学寺ニ有」とあり、横瀬の喜見寺にある出雲守牌子の文にも「天正19年6月12日小島出雲守卒ス。松風涼載居士ト謚ス」とある。墓碑の天正9年は誤りで19年が正しい。

小島城跡 小島出雲守の墓
小島城跡 小島出雲守の墓

依岡左京進と依岡右京進
兼定を豊後に追放した後、依岡左京進と小島出雲守はすぐに元親に味方して、付近の一条氏の諸城を攻め、元親から賞として土地五百町ずつを与えられた(『長元記』による)。
左京進は、元親の伊豫攻略戦にも参加して手柄をたてると共に、天正10年(1582)には元親の内命をうけて織田信長への使者を勤め、更に天正13年(1585)にも元親に従って豊臣秀吉に接見するなど知勇優れた武者振りを発揮している。
『南路志』では依岡左京は添の川城主で、依岡右京は伊与野城主とあり、『土佐物語』の旧領安堵の侍の中には添の川に依岡左京、伊与野に依岡近江とあって、添の川城主と伊与野城主ば別になっているが、もし別人とするとこれらは兄弟であったのかもしれない。寺石正路著の『土佐国名家系譜』では左京と右京進は同一人として伊与野城主としている。
『古城略史』には元親から五百町の恩賞をもらったのは伊与野城主依岡右京進としており、『古城伝承記』には添の川城主を右京之助とするなど、左京、右京が混同し同一人か別人か判断に苦しむのである、依岡右京進は九州戸次川の戦で戦死しているが、左京についてはその後の様子はわからない。
添の川城跡は山間にあり付近に人家少なく戦国の大部将の居た所とは思えない。伊与野は付近に水田や人家も多く、しかも天正地検帳に依岡弥次郎が伊与野村母代土居に居り地百町を給されており、これをみると依岡の本拠は伊与野であったとも考えられる。『大月町史』でも依岡の本拠は伊与野で、添の川はその一族の城であろうと記されている。とにかく、元親に従って大きな功績のあった依岡左京進(左京亮、左京)は伊与野と深い関係があったことには間違いないであろう。

戸次川の戦死者
 九州戸次川の戦いで土佐の将兵は700人余り戦死しているが、高知市長浜の雪蹊寺の戦死者氏名の中に宿毛市に居た家臣の名前がみられる。
      依岡右京進(依岡衆、伊与野に居たか)、郎等2人
      国沢又左衛門(吉奈衆)
      森岡藤介  (吉奈衆)
      十市新蔵人 (吉奈衆)被官1人
      岡宗右衛門進(吉奈衆)
      前田菊右衛門(吉奈衆)
      鍋嶋五良大夫(吉奈衆)被官1人
      山田竹辺村極楽寺被官1人

十市備後守
『細川氏系図』や『南路志』などによると、十市備後守入道宗桃は本姓を細川といい、細川武蔵守頼之の10代の孫とある。十市氏は管領目代となって長岡郡十市村蛸城(栗山城)に居城し、十市姓を名乗って領地を凡そ4000石有していたという。
天文13年(1544)十市一族は長宗我部国親(元親の父)に降ってその配下となり、ここに長宗我部氏の門閥名臣の1人となったのである。永禄5年(1562)には元親の命令により朝倉城を攻め、同12年には元親と安芸国虎の合戦で姫倉城を攻めている。
天正3年(1575)渡川の合戦の後、元親は十市備後守を吉奈城番として鶴が城に入城させた。
翌4年には、元親軍の武将として宇和郡に侵入し、宇和郡領主西園寺氏の旗本河原淵氏が守る河後森かごのもり城を攻めて降伏させた。同6年元親は5000余の兵を率いて讃岐国藤目ノ城を攻め落としたが、この時わずか18才の4男細川弥四郎を戦死させている。
更に、同10年2月元親の命により、幡多の将兵桑名弥次兵衛、光富権之助、宿毛右衛門大夫等と共に800余騎を率いて伊予三間郡高森城を攻め、同年8月阿波国海部の勝瑞の合戦や御荘城攻撃にも出陣し、元親の四国平定にあたって幾多の戦功を挙げている。
元親は天正12年2月に御荘越前守を降参させてより、同年7月頃から三間の諸城を陥し、進んで翌13年1月道後を攻めて河野通直を降した。この時十市備後守は長男頼重を失った。このように十市氏は父子共に元親に仕えて四国平定に数多くの戦功を残してきたが、十市備後守はついに吉奈城(鶴ケ城)中で死んだのである。
『細川氏系図』によると十市備後守頼重が伊予松山道後合戦で討死した後は、嗣子が幼少のため弟にあたる佐井掃部正頼が鶴ヶ城の後見となったとあるが、『吉奈村地検帳』によると、佐井掃部は「横瀬村居」とあるので、十市備後守の後継者は、あるいは別の人であったかもしれない。

十市備後守がいた鶴ケ城跡(芳奈)
十市備後守がいた鶴ケ城跡(芳奈)
宿毛右衛門大夫
宿毛右衛門大夫は、長宗我部元親の従弟の子に当たりもと長岡郡に居り、長宗我部右衛門尉親清または南岡四郎兵衛と称していた。(『南路志』には、元親の甥とあるが、『長宗我部氏系図』によると元親と従弟の子の関係に当たる。)
宿毛右衛門大夫は、天正3年の渡川合戦後元親より宿毛城番を任され、宿毛松田村土居に居た。この時、平田城領も与えられている。天正4年頃から伊予・讃岐に転戦して多大の武功をたてた。天正8年から9年正月にかけては、西園寺氏の武将北ノ川親安が守る三滝城や甲森城を攻め陥し、元親は宿毛右衛門大夫を伊予三間郡甲森の城主とした。続いて、天正10年2月に十市備後守等と高森城を攻め元親より御褒美の使者を頂いている。
また、天正11年には宇和郡に攻め入り、再び三滝城を陥落させ、天正11年2月より翌正月にかけて行われた御荘城攻略にも大きな戦功をたてた。
宿毛右衛門大夫は、その後文禄元年(1592)頃に野田甚左衛門と交代して長岡郡の本領に帰ったが、慶長5年(1600)長宗我部盛親の家老となり、元和元年(1615)に盛親と藤堂高虎が戦った大阪陣八尾の合戦に出て戦功をたてた。『土佐遺語』に「南岡四郎兵衛、宿毛右衛門大夫。人となり雄略にして宗家股肱の臣なり、四国陣基外功多し、慶長5年浦戸城明渡の際、籠城討死を主張するも行われず。大阪陣の時素より盛親に党し、5月6日八尾合戦大いに藤堂軍を破る。」とある。彼は、これより先、讃岐に植田城を築き、豊臣秀吉の四国征伐に対して、城主となって敵を防いでいる。恐らく御荘城攻略の直後のことであろう。
彼の最期についてはわからない。

宿毛甚左衛門
宿毛甚左衛門はもと長岡郡野田城に居て野田甚左衛門と称していたが、文禄元年(1592)の頻、先の宿毛右衛門大夫と交代して宿毛城番となり宿毛甚左衛門と号するようになった。甚左衛門は長宗我部氏の古い一族で、夫人は本山茂辰の女であった。
宿毛付近も宿毛甚左衛門がいた頃は、わりあいに平和であった。伝承によると、甚左衛門は 宿毛城番となってから松田古城を修復して居城とし、また、松田川をも改修して宿毛水田の耕地整理を施したり、松尾山の麓二里にわたって梅樹を植え、梅の実の増産を図ったという話しがある。
宿毛甚左衛門についてくわしい活躍はわからないが『桑名弥次兵衛一代手柄書付」によると、元親の臨終の遺言に「以後どのような武将が長宗我部家にあらわれても必ず桑名弥次兵衛を以って先陣とし、久武内蔵介を以って中陣とし、宿毛甚左衛門を以って後陣にせよ」と盛親に遺言したとある。
なお、甚左衛門は慶長5年12月に桑名弥次兵衛、宿毛右衛門大夫等と共に浦戸一揆を滅ぼしている。彼は沈着にして思慮の深い武将であったと伝えられている。