宿毛市史【中世編-長宗我部氏と宿毛-】
長宗我部氏の民政
長宗我部元親は土佐を統一してから支配体制を固めるために新しい行政機構を作りあげた。慶長2年(1597)、法令百箇条と長宗我部元親式目を制定すると共に、奉行、その下の様々の直轄役人、そして地下役人の庄屋、刀祢などの掟を定めて庶民を支配した。
『秦氏政事記』によると、宿毛地域に奉行・道口番庄屋・庄屋・刀祢などが置かれ塩浜もつくられていたことがわかり、元親がいかに支配を浸透していたかがよくわかるのである。
諸奉行
幡多郡下には31人の奉行が配置されている。その中の近藤太郎衛は段米金銀並十分一奉行として七町五反二十八代の土地を給され、31人中、最高の土地を持っていた。平田村地検帳によると、この近藤太郎衛は平田村とその近くで、四町一反四十五代五歩(三十六筆)という広い土地を持っていてこの中、二筆が「上ヤシキ」、一筆が「下ヤシキ」となっており、「上ヤシキ」三十九代二歩には「又二良居」とあり、「下ヤシキ」三十四代五歩に「堪吉居」とあるが、「上ヤシキ」五十四代一歩の一番広い屋敷に居た者が記されていないので、あるいはここに近藤太郎衛が居たのではあるまいか。
当時農民は3分の2の年貢上納のほかに「段米」といって反別に応じて田租の付加税も徴収されていたのである。特に、借地に住む被官百姓などの隷属小農民まで年貢を納めなけれぱならないように、法令百箇条の47条で決められていた。
「金銀」とは職人を指揮命令し、賃金を定めることのようで、「十分一」というのは、船舶・漁網・魚・積荷などに課した税のことである。近藤太郎衛は幡多管内において、このような収税事務などをつかさどる役職にあったのである。
また、肴奉行が幡多郡に2人いたが、その中の1人が伊与野村に居た浦田新蔵人で、彼は伊与野村を中心に、その周辺で地六町五反二十代(六十筆程度)を給されている。一種の漁業税のようなものを徴収する役目を負っていたのであろう。
庄屋・刀祢
庄屋は村方に、刀祢は浦方に置かれたもので、これらの者のほとんどは、その土地に住んでいた者の中から任命されたようで、その土地の百姓や水主を管理支配していたのである。これらの者には、役給として土地が与えられており、庄屋には公事(雑税)免除の特典も与えていたようである。その反面、法令百箇条に示されているように、代官の下にあって、様々の義務が負わされていたのである。例えぱ毎年秋には年貢の収納に勤め、違反者を出さないようにする。田地を荒さないように指導管理する。また、どろぼうや大酒のみを取締ったり、道作りや道の修理をさせる。特に、人々の出入りについては厳しく取締り、違反者がでた場合は代官や奉行に通告して罰金を科すなど、多岐にわたる職務を負わされていたようである。
このように庄屋や刀称の下で酷使され、抑えつけられた農漁民達は、年貢の負担や過酷の労働提供に耐えかねて逃亡する者もあった。法令百箇条によると、農民の移動、逃散を厳重に取締ったことがわかるが、ことに、名子、被官百姓のように直接農耕に従事していた者たちの逃亡を厳禁している。恐らく年貢の減収が大きくなるからであろう。
さて、『秦氏政事記』によると、宿毛地域に、庄屋が12名、刀祢が10名居たことがわかる。今それを列記すると次の通りである。
庄 屋
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一、 | 伊与野 | 庄屋 | 西岡蔵人 |
一、 | 山田 | 庄屋 | 小島右京 三町七反四十三代 |
一、 | 吉奈 | 庄屋 | 野口甚兵衛 三町三反三十二代、前田民部 五町壱反六代 内一人前庄屋に引 |
一、 | 平田 | 庄屋 | 山脇権之進 四町の内一人前庄屋に引、宗竹助兵衛 壱町四反六代 |
一、 | 宿毛 | 庄屋 | 立田孫太郎 二町六反四代、岡本春宗 壱町壱反二十九代 |
一、 | 大深浦 小深浦 樺 藻来津 宇須々木 大島 | 庄屋 | 松崎孫兵衛、名本弥兵衛 |
一、 | 正木 窪川 野地 草木藪 | 庄屋 | 小島弥一郎被官 竹乗衛門 所谷善太 |
刀 祢
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一、 | 弘瀬 | 刀祢 | 三浦助左衛門 三町七反十三代 |
一、 | 榊浦 | 刀祢 | 新左衛門 |
一、 | 小尽浦 | 刀祢 | 谷忠兵衛被官善左衛門 |
一、 | 湊 | 刀祢 | 西田蔵人 |
一、 | 内ノ浦 | 刀祢 | 西田蔵人 |
一、 | 外ノ浦 | 刀祢 | 左衛門 |
一、 | 藤太郎 | 刀祢 | 善兵衛 |
一、 | 小浦 | 刀祢 | 浜田吉兵衛 |
一、 | 大島 | 刀祢 | 甚左衛門分、岩崎三郎兵衛 |
一、 | 坂ノ下 | 刀祢 | 同 |
一、 | 立浦 | 刀祢 | 同 |
| (宇須々木) | |
道ロ番庄屋
このころは戦乱の世で、特に他国との出入りが厳しかった。国境付近の要所要所には、道口番庄屋を置いて、厳しく取締ったようである。
法令百箇条第23条に「他国江上下共出入之事、奉行人、年寄中判形無レ之者、浦々山々一切不レ可レ通、山々者其所庄屋、浦々ハ刀称定置上者、若緩申付、猥出入候者、即時右之者可レ行二罪科一事」とある。
宿毛地域に置かれた道口番庄屋は、奥奈路にあつた橋上口庄屋、松尾坂にあった松尾口庄屋と、今一つは場所はわかっていないが、宿毛定宮庄屋があった。
塩浜
長宗我部氏は海岸地域に塩浜を指定して、製塩を行なわせ月々塩浜税を徴収した。塩浜を上、中、下に分け、一浜当たりの月々の割当量を決めて徴収していたのである。上の浜七升五合、中の浜約五升六合、下の浜約三升六合となっていて滞納した場合は、倍の量が徴収されるように定められていた。
『秦氏政事記』に、当時宿毛地域において、塩浜が伊与野と宿毛にあったことが記されている。
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一、 | 拾弐浜 | 中 | 壱ヶ月 | 六斗七升 | いよの | 但し壱浜に付同 |
一、 | 三拾九浜 | 上 | 壱ヶ月 | 弐石九斗弐升五合 | 宿 毛 | 但し壱浜に付七升五合宛 |
地検帳には次のように記されており、多少の差異がみられる。
伊与野地検帳
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田之浦地検帳
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『秦氏政事記』にいう、伊与野拾弐浜というのは、伊与野と田ノ浦を合わせたものであろう。これを合わせると12浜となって、合う。
宿毛塩浜については、藻来津村、宇須々木村地検帳にみられるだけで、他にはない。多分このことであろう。
藻来津塩浜帳
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一合塩浜数 | 九浜半 | 大小共ニ |
内中浜 | 三ツ半浜 |
下浜 | 五ツ半浜 |
荒浜 | 半浜有 |
宇須々木之村塩浜地検帳
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一合塩浜数 | 三拾六浜 | 大小共ニ |
内、中 | 拾壱浜 |
下 | 十七浜 |
アレ | 八浜 |
これによると、宿毛には中、下の浜が45浜半あったことになり『秦氏政事記』の上浜39浜と多劣違いがみられる。荒浜の分を引いても浜数が合致しない。調査時期のずれによるものか、あるいは『秦氏政事記』の調査漏れかもしれない。