宿毛市史【中世編-社寺領-】

長宗我部時代の社寺領

長宗我部氏の時代になると、一条氏時代に比べてその社寺の数は地検帳のうえでは約4分の1程度に減っているが(実際は多く残っていたかもしれないが)これは元親が社寺に対する関心が薄かった為に、保護政策を進めなかったものではなかったかのように思われる。むしろ、一条氏よりも宗教に対する熱意は強かったとも考えられる。それは、元親によって作られた法令百箇条によって知ることができる。今それをみてみると、
一、諸社の神事祭礼などは先年定めた通りで、社頭寄進物などはできるものは修理を加え、大破して修理できない時は係役人まで申入れよ。無噺で放任する時は神主も信徒も同罪とし咎を受けるであろう。
一、諸寺の勤め行事など怠ってはならぬ。建物の造営は寺領をもって修繕を怠ってはならぬ。

これによると、元親は四国統一の戦いをすすめる過程にあって、財政もそれほど余裕がなかったと思われるのに、社寺の復興に尽そうとしてきているし、僧侶たちの果たす役割についても重んじていたことがわかる。
社寺の数が4分の1に減っている理由についてはもちろんさだかではないが、1つには元親が中世にみられた寺院の特権を否定した為に、元親の政策に反する思想、または行動をとった社寺が廃寺または廃社となったのではあるまいか。また、元親の幡多郡占領によって、幡多の武将が抜本的に再編成された為に、転補または没落した壇家の武将が多かったことにもよったのではあるまいか。
更に地検帳によると、長宗我部氏の時代になって社寺領の増減がみられるのも一つの特徴である。これは寺院などの所領に依存していた農民たちを、時に応じて農兵(一領具足)として戦いに参加させていた寺院があったり、また、憎侶の多くいた寺院の場合は坊主たちを従軍させていたためにとられた措置であったかもしれない。


社 寺 名 所  在  地 所 領 地 高 社 寺 名 所  在  地 所 領 地 高
  町、反、代、歩   町、反、代、歩
  大 楽 院     3、 5、29、4 ○ 天医寺        3、38、3
      (3、34、3)
○ 円明院領 中  村  市  10、 6、28、0
 ( 9、 9、  6、4)
○ 養達寺分 横  瀬  村      6、 4、1
      (5、31、1)
○ 報恩寺     1、 4、 5、4
 ( 1、 2、 23、4)
○ 西念寺分 横  瀬  村      8、39、4
      (8、 1、1)
○ 西光寺 宿毛中津野村?      8、15、4
 ( 1、  0、 8、5)
○ 天院 山田土居内村   2、 0、27、2
  ( 1、 7、46、0)
  山田天神 山  田  郷      6、 8、3 ○ 御篠神田 宿毛久甫川村   6、 5、23、1
  ( 4、 0、18、1)
○ 極楽寺 山 田 竹 辺 村      1、14、0
        (46、0)
  躍 堂 床 平 田 戸 内 村        12、0
○ 医法寺 山 田 行 久 村      2、 0、4
      (1、10、0)
○ 高持社 平 田 戸 内 村        11、4
        (11、4)
○ 寺 山 平 田 寺 山 村  29、 8、18、3
 (20、 2、 12、1)
○ 寿昌院           25、3
       
(20、0)
○ 長福寺 山 田 長 尾 村   5、 9、26、3
  
(5、 9、26、3)
○ 器々庵 平  田  村      5、33、5
     ( 5、33、5)
○ 天心院 山 田 小 島 村        41、1
      
(41、1)
  御 堂 床 平 田 赤 木 村        11、0
○ 大明神社 山 田 宮 下 村        30、0
        ( 3、0)
○ 八 幡 山  田  村      3、30、0
     ( 2、30、0)
○ 神保庵 平 田 赤 木 村      2、14、2
      
(15、0)
○ 薬師堂 平  田  村      7、13、2
     ( 1、16、0)
○ 天与院 平 田 戸 内 村   2、 4、23、1
  (1、  5、 6、0)
  二 王 床 平 田 寺 山 村         2、0
○ 勝福寺 吉  奈  村   1、 2、23、3
      (3、10、0)
  藤 林 寺 平  田  村  14、 6、34、1
  ( 1、 5、 4、2)
○ 仏心寺 吉  奈  村   1、 2、39、0
 
(1、 1、 27、0)
  堂   床 橋  上  村        12、0
  宮   床
  (権現社)
橋 上 京 法 村        20、0   大 門 分 横  瀬  村   1、 0、38、4
  堂   床 橋上おきのなろ村     愛   宕 山田長尾村か      3、20、0
○ 石見寺領 中村市安並か   1、 7、25、4
   (1、 6、 31、4)
  東 林 寺 吉  奈  村   5、 8、48、4
  一   宮 宿 毛 和 田 村   3、 1、21、0   大   坊 有     岡   1、 0、30、0
  二 ノ 宮 宿 毛 ニ ノ 宮 村      5、39、3   谷 之 坊
  (吉奈衆)
吉  奈  村      4、46、5
  正 程 寺 宿      毛      1、28、0 ○ 宝光寺堂 平  田  村        13、0
        (46、0)
  自 王 神 宿 毛 錦 村 か        41、5   八 幡 宮 宿 毛 高 田 村 ?      4、 3、3
  ヒ ゝ キ 神
  (三 島)
宿毛大深浦村か        19、2   龍野見堂 平  田  村        11、0
  隼鷹大明神
  (八竜王)
宇 須 々 木 村 一間四面之宮三社殿
(五間、二間)
  地 蔵 堂 平  田  村        14、4
○ 森観音堂 平 田 村 森         5、0   阿弥陀堂床 平  田  村        10、0
  曽我大明神 伊 与 野 村         2、4 ○ 明現神 大 深 浦 村        35、0
  北 之 坊        4、27、3   曽我御堂床 平田村ソカノ山         5、0
  衣    休     5、 9、37、1   大 楽 坊     1、 2、49、3
  高    尾 山  田  郷      1、 4、3   小松寺殿持        6、 3、1
○ 正住寺 宿 毛 市 神 村   3、 8、19、1
  ( 3、 8、19、1)
  三   島          13、1
1 ○印は地検帳に(本…分)とあるのを示す。一条時代にも見える社寺。
2 諸領地高の細字は旧領を示す。

次に、宿毛地域において神田没収または社領の増額のあったものの一例を地検帳よりとり出してみると、
1、神田の没収
  一所 五代弐分 下々 白尾神田今ハ神事ナシ 平田平内村長福寺領(高持社の別当寺)
  一所 壱段 出八代 下 龍王神テン今ハ神事ナシ 平田平内村 寺山領
「神事ナシ」というから、神田の必要がなくなり、神田を没収したものであろう。それを他の寺院に改めて給与していることがわかる。
2、社寺領増額の例
社 寺 名 旧    領 長宗我部氏給領
 町、反、代、歩  町、反、代、歩
寺山延光寺 20、 2、12、1 29、 8、18、3
篠 山 権 現  4、 0、18、1  6、 5、23、1

これによると、長宗我部氏の時代になって、所領がずっとふえている社寺があったことがわかるのである。
また、「大楽院」のよう一条氏の時代にはみられなかった寺院もみられる。
このように、元親は社寺の統制を行うと共に社寺、憎侶などの優遇を図っているようである。しかし、ただ優遇するだけでなく、そこには社寺に対して義務的なものを負わせていたように思われる。中村市史や土佐清水市の歴史年表資料によると、足摺岬金剛福寺や円明院の寺衆、僧侶が九州戸次川の合戦に従軍して戦死している。当時所領を多く持つ社寺では、一領具足の農兵を養って動員に応じたのであろうという意味のことが述べられているように、足摺岬金剛福寺に次ぐ多額の寺領を有していた寺山延光寺の場合もそのようなことがあったのであろう。
平田地検帳によると、寺山延光寺に所属していた僧侶と思われる者に関して次のようなのがみられる。
 「一所拾代 出弐拾五分勺才上 吉奈衆 平田村谷之坊領」
これによると、谷之坊は吉奈城に属する軍団の1人でもあり、僧兵として戦いに参加していたものとみてよいのではなかろうか。また、長浜の雪溪寺の戦死者氏名の中に「山田竹辺村極楽寺被官1人」 (南路志)とある。
元親か寺山延光寺の十二坊の坊頭、南光院に送った書状がある。それによると、戦勝祈念に対するお礼が書かれている。もう1つの書状は、親密な交際があったことが伺える内容のものである。これらで推測すると、寺院が単なる戦勝祈念のような精神的な助けをしていただけでなく、物理的協力、つまり寺衆や僧侶たちを軍役に出して協力していたのではないかと考えられる。あるいは、僧侶たちは戦死者の供養をさせるために従軍憎として参加させていたのかもしれない。