宿毛市史【中世編-戦国古城-】

山奈町の城跡

小島城
山奈町山田字小島にあって、城主は小島出雲守橘政章である。
小島氏は、一条教房が中村に入国されてから、一条氏の家臣となり、出雲守は永禄12年一条氏の命を受けて、和井舎人祐が居た山田の和井城を攻略すると共に、その父和井掃部祐が隠居に構えていた土居の内古殿も攻め落とした。出雲守は、和井城を弟の伊賀祐に、土居の内古殿をその弟の主税助に与えている。
天正2年には、一条兼定を豊後に追った一条氏の家老達の不義を憤り、他の国侍たちとともに為松若狭守、安並和泉守等の居城を攻め滅ぽした。この戦いが終ると、長宗我部元親は、幡多郡鎮圧に名をかりて、弟の吉良左京進を中村城へ入城させた。このとき、小島出雲守、依岡左京亮等はすぐに元親の家来となり、一条氏に味方して元親に降ろうとしなかった川田の伊与田城主伊与田淡路守、横瀬の奈良城主奈良長門入道や竹葉城主竹葉権頭、安宗城主安宗因播守実刻等付近の武将を襲い、天正2年の暮れごろまでに、ことごとく滅ぽしたのである。これで付近全部か元親に従うようになったので、元親は出雲守の功を賞して、地五百町歩を与えている。
出雲守は、伊与田城を2男の左京に、竹部の古殿邸宅を3男の小島釆女に与えている。天正15年小島出雲守は、小島城を嫡男の民部祐政倶に譲り、出雲守は奥奈路のイロシロに居り後、居館を僑上村土居ヤシキに移して住んでいたが、4年後の天正19年に病死した。墓は橋上の清学寺境内にある。
出雲守の嫡男政倶は、小島城を領することわずかに2年で、天正17年10月6日に死んだ。善明寺殿玄光霜居士といい、墓は小島城中にある。政倶の死後、その子某氏がまだ幼少であったため、元親の許しを得て伯父小島右京(伊与田城主となっていた)が養っていた。
伊与田城を領していた小島右京は、その後山田村の庄屋となったことが、慶長2年の『秦氏政事記』により明らかである。小島氏一族が、この地で最も盛んであったのは、出雲守時代で、天正地検帳によれば、一族13家が小島土居に住んでおり、なお、横瀬、山田に多数の一族が居たことが明らかである。
元和元年、長宗我部氏が滅亡すると、小島一族も離散してしまい、その行方はわからない。

小島政倶の墓(山田字小島)
小島政倶の墓(山田字小島)

伊与田城
伊与田城の城跡は、山奈町山田にあり、小島城の西北4、500メートルの所にある。ここに秋葉神社の小祠があるので、通称秋葉様といっている。城主は代々伊与田淡路守といい、藤原姓である。代代の伊与田城主と思われる人々の記録は次のようなものが残っている。
1、横瀬高尾寺の鰐口銘「至徳元年2月廿8日土州幡多庄山田村高尾寺大願主藤原有忠同能景」
2、応永2年の横瀬新長楽寺の中興棟札
応永二乙亥年7月 大願趣主淡路守藤原能信
 嫡男淡路守藤原親能
 
奉棟上御厨子仏壇一宇 二男 淡路三郎□能
 三男 乙鍋丸
 沙弥金阿藤原忠能
3、天和年中伊与田城跡より出土した日本一のかぶとの大鍬形の銘「文安元年甲子8月廿2日藤原能重」
4、永正8年2月28日山田村八幡宮般若経箱銘「土州幡多庄山田郷伊与田淡路守基能、紀伊守国能」
天正2年2月一条兼定が、九州の豊後に追われた後も節を曲げず、なお一条氏の家臣として元親に降らなかった伊与田淡路守は、いつかは時期が来るものと、ひそかに待っていたのである。
小島城主小島出雲守は元親に従い、一条方の城、伊与田城を攻めてきた。淡路守は不意に攻められ、なおその上に老体であったので城もついに陥落し、淡路守は城を後に、いずこともなく姿を消してしまった。
なお、古老の言として左の一説もある。
「伊与田落城のときの城主は紀伊守国能で、落城後姿を消していたが、ついに楠島村尾峰において戦死した。今でも楠島の人たちが「伊与田木之神」と号して祭っている。」

和井城
和井城跡は、山田字馬場住井堰僑のすぐ西にある。現在シロントウと呼ばれていて、畑と松山とになり、西の峰続きには、数条の空掘りがある。
城主は、小島伊賀祐といい、小島出雲守の弟である。
この城はもと、和井掃部祐の居城であり、代々和井掃部がこの城に居り、応仁2年一条氏が中村に下国されてからは、一条氏に仕えていた。老衰した和井掃部祐は、天文元年にこの城を長男舎人祐に譲り、自分は土居の内古殿に屋敷を構えて隠居したのである。
新城主となった舎人祐は、生まれつきわがままな性格であったが、父が隠居して新しく自分が城主となると、ますます、その性格が激しくなり、主家一条氏のきげんを損うことも度々であった。一条氏も、この時は兼定の時代であり、兼定白身極めてわがままな性格であったので、わずかな事でも大きくなったのであろう。ついに、兼定は舎人祐のわがままを怒り、永禄12年に小島城主小島出雲守に命じて、和井城を攻めさせたのである。
出雲守は主力を和井城に、別動隊をもって古殿屋敷を攻め、またたくまにこれ等を攻め落とした。和井父子はひそかに城を抜け出し、いずこともなく逃れて行った。
一条兼定は、出雲守の弟小島伊賀祐に和井城を与え、その弟主税祐に古殿屋敷を与えた。
このようにして、代々和井掃部祐の居城であったこの城も、小島伊賀祐の居るところとなったのである。
和井城攻略より、20年の後の天正地検帳によれば、行久村(今の馬場住)に小島伊賀祐が、古殿に小島主税助が居るので、この20年間には、この城は何等の変化もなかったことがわかる。

和井城跡
和井城跡

山田城
山田城は、一名高畑城ともいい、竹部部落より山田川を隔てて、東の高地にあり、現在「城山」と呼んでいるところにある。なお、この城山より1つ谷を隔てて、東の高地を俗称「高畑」と呼んでいる。
城主は高畑氏である。高畑城の名はここからおこっている。この山田城主に1人の弟があった。兄弟は、いつも仲が悪く、争いが絶えなかった。ある時、兄弟げんかの未、弟はこの城に居ることを喜ばず、東の森(俗称高畑)に城を築き始めた。母はいつも、この2人のことを心配していたが、ついに、意を決して東の森に旗を立て、北斗の神に兄弟の和解を祈った。この母の一心の願いが通じたのか、弟は悪心を改めて兄弟の仲はよくなった。
その後、この城は天正年中元親の所領となり、城代をおいていた。現在城跡は畑となり、南北に各々一条の深い空堀りが残っており、城の下の水田は「城の下」と呼ばれている。
『土佐国古城略史』に、この城を山田桐島城とし、城主を桐島仁兵衛としているが、これは『山横俗諺集』の誤読であり、桐島仁兵衛は農夫で、城の由来を語った人である。

山枝城
山枝城は、鹿島部落にあって、現在城跡の地を「城主ヶ森」「城主ヶ谷」といっている。なお、近くに「山枝」という地名もあり、普通ヤマニンダと呼んでいる。
昔この地は、医法山(いのり山)離城(みなみのしろ)中の地であり、ここに若宮神社を祭っていた。この若宮神社の神主であった山枝某が、この城に居ったので山枝城といったというのである。
この若宮神社を養和年間に、現在八幡宮のある宮尾に移してからは、この城に城主がなく、山田のすべての城から順番をきめて交代に、城の番に出ていたという。天正年中に元親に降り、元親はこの城に番兵を置いていた。現在「城主ヶ森」は畑となり、南に一条の空堀りがある。

柴岡城
宿毛市役所山奈支所の北「峰」にあって、現在この地に若宮神社を祭っており、普通「柴の峰」といっている。
若宮神社は、昔は、山枝城中にあったが、養和頃宮尾に移され、さらに長享2年に宮尾に八幡宮が造営されると、3度宮所を移して現在の峰に来たのである。
城主は柴岡尾張守といい、元親の家来である。地検帳によれば「シバオカヤシキ一反廿5代」に屋敷を構え、竹石その他数か所に家来の家がある。

鶴が城 (吉奈城)
芳奈下組部落の北の高地に、長宗我部元親の勇将十市備後守が居た鶴が城跡がある。上部は高い岸のある数段の畑となっており、最上段は一反歩くらいの広さがある。北・東・南とそれぞれ数条の空堀がある。城の規模は、なかなか広大で、元親の勇将十市備後守の居城として、まことにふさわしい城の構えで、足利時代の段段式城郭の模式的なものといえよう。
十市備後守入道宗桃は、長岡郡十市村の蛸城にいて、元親とは連歌の会の仲でもあった。彼は文武両道にすぐれた人でもあった。
元親は、渡川合戦を契機に、幡多郡一円を握ることになった。この時、幡多の守りを固めるために、十市備後守を吉奈鶴が城主に、長宗我部右衛門大夫を宿毛城主として配置した。
十市備後守は吉奈鶴が城主になると、2男池豊前守を池城に残して、他の子供およぴ一族郎党を連れて鶴が城に移ったのである。十市氏は、鶴が城主となって以来、元親の命に従って、阿波・讃岐・伊予と転戦し、数多くの戦功をたてている。しかし、讃岐の藤目の合戦では弱冠18才の4男細川弥四郎を、松山道後の合戦では長男頼重をそれぞれ戦死させている。『南路志』によると「弥四郎18才、讃岐国藤目で戦死す。遺骨を吉奈村善入寺に蔵す。墓今存す。此れ、備後守息也」とある。善入寺は靴抜の中平貞吉氏付近で、現在ゲンノウジの地名も残っている。墓は中平氏宅入口の所に五輪塔があり、それかと思われるが確証はない。なお、弥四郎の刀が最近まで、妙本寺にあって、蛇動丸といわれていたそうだが今はない。
十市備後守宗桃は、鶴が城中でなくなり、墓は鶴が城中の西松屋敷に建てたというが、地検帳には、西松屋敷の地名はあるが、現在はこの地名はなく、その位置場所とも不明である。
十市備後守の3男正頼は、細川の細をサイと読むことから、姓を佐井と改めて佐井掃部といい、兄頼重が道後で戦死した後は、幼い甥の後見をして鶴が城にいた。(地検帳には佐井掃部は横瀬に居たとある。)その後、佐井掃部は長宗我部氏に従って、関が原の戦いに出陣して敗れ、伊賀国に留まったという。
鶴が城の南方に「おひめさま」と呼ばれている小祠しょうしがある。頼重の娘を祭っているほこらであろう。
佐井掃部正頼に子が3人ある。長男を佐井喜兵衛正久といい、元親に従って秀吉の朝鮮征伐に出陣して戦功があった。関が原の戦いには鶴が城の留守をして城に残っていた。長宗我部氏没落後は城を出て、高岡郡用石村に行き、山内公に仕えて彼地の庄屋になった。
2男正隆は父正頼とともに、伊賀国に留まり、3男正晴は佐井兵衛といい、父正頼が出陣の時は幼少であったので庶母とともに城に残り、長宗我部氏没落後城を出た。正隆の子孫が現在の佐井並びに細川家である。
十市備後守が吉奈入城の際、これに従って来た者のなかで、この地に土着した人も少なくない。そのなかで最も著名なのは、広井新兵衛と下村兵庫佐通重である。広井新兵衛は鶴が城の副士となって三百石を領し、下村兵庫は、十市備後守に従って十市村より吉奈に来て、山田村長場に住んだ。
土佐遺語のなかに「吉奈古城秦氏予州を略する時の使細川備後守之を監す或は曰く本野玄蕃居城也」とあり、古城略史には「城主前野玄蕃秦氏の代細川備後之を監す」とある。前野玄蕃は十市備後入城前の城主であるが、いかなる人かわからない。

岡宗城 (岡城)
芳奈道の川部落の南、浜田部落の西にある小高い丘を現在岡宗城といい、さらにその南方の丘のふもとを岡城という。現在は岡宗城と岡城とは、別の地名であるが、この2城はともに同一の城の名前であり、初め岡城といっていたのを、後に岡宗城と改名したのである。
城の規模は広大で、周囲は険であり、鶴が城とともに、足利時代城郭の模式的なものである。北部並びに、南西部に空堀があり、城の上部はすべて畑になっている。岡城の城主は不明であるが、岡和泉守輝之であろうと思われる。
岡和泉守は、天文頃土佐に下り、一条兼定に仕え、宇佐上陸に戦功をたて、宇佐に賞田をもらっている人である。幡多郡に居たことは明らかであるが、郡中にその居城が他になく、さらに、岡和泉守の長男を岡本(岡家の本流より)、末子を末岡、後に松岡(岡家の末流より)といっているが、岡本、松岡の地名もこの付近にあり、それらの地すべてが、「もと岡分」とあること等より考えて、岡城主は、岡和泉守輝之であると断定してよいと思う。
一条氏滅亡後、鶴が城に十市備後守が入城してからは、この城はその枝城となり、十市備後の家臣、岡宗新蔵人、岡宗左兵衛等の岡宗一族の居城となり、名も岡宗城と呼ぶようになったのである。
この間の事情を物語る、唯一の資料は地検帳であり、これによると、「竹の内」に岡宗左兵衛が居り「北のマエ」「オカモト」「北二塀岡宗のダン」「城の下」等、すべて岡宗左兵衛の土地であり、これらのすべてに「元岡分」の注がある。さらに「岡城の南」「岡城東の上ニノダン」「岡城の南ニノヘイ」「ツメノダン」等も「本岡分吉奈城領」(吉奈城とは鶴が城のこと)となっている。
岡宗新蔵人は「キド」の一反3代の屋敷に居り「ウキザワ」「ミノコシ」等にやはり、本岡分の土地をもっている。吉奈の地検帳には、本岡分、本米津分、本西小路分等の注のある土地が多い。十市備後守入城前の吉奈はこれら一条氏家臣の人々の土地であったのが一条氏滅亡、十市氏入城とともに追放にあい十市一族の土地となったものである。
岡城には岡宗氏が入り岡宗城と名を改めたが、他の引地城、松岡城とともに鶴が城の枝城であり、鶴が城を中心として、吉奈の全体が一城塞をなしていたのである。

岡宗城跡
岡宗城跡

引地城
岡宗城から小さな谷を隔てたすぐ西、道ノ川部落のすぐ南側の小高い山を引地城という。この城は、もと岡城の一枝城として、構築されたものと思われるが、十市備後守が鶴が城に入城してからは、岡城とともに鶴が城の領地となったのである。
地検帳に「ヒキチ廿4代居広井新兵衛」とあり、広井新兵衛俊国があずかった城と思われる。広井新兵衛は、鶴が城にも家があったとみえ、鶴が城内に「4代三歩下々ヤシキ広井新兵衛家地」とある。発城したときの家か何かであろう。
広井家の遠祖は秦能俊で、秦の始皇帝の後裔であり、長宗我部元親と同じ先祖である。その子孫修理亮俊幸が、長岡郡広井城に入城したため広井と号し、その孫新兵衛俊国が十市備後の副士となって、吉奈に来て三百石を領し、その後、地検の奉行となり、さらに、朝鮮の役に出陣して功をたて、長宗我部氏滅亡、山内氏入国後は吉奈の庄屋にとりたてられている。

松岡城
芳奈靴抜部落の川原の上に城跡があり、炭化した米が畑の中から出てくる。土に混じって土器の破片もたくさん出土し、その破片よりみて壼であることがわかる。この地は、昔兵糧倉の建っていたところといわれている。兵糧倉が焼けて米が炭となり、味噌、醤油、油等を入れていた壼も破損したのであろう。
畑の南部、山続きの所に非常に深い空堀がある。土地の人もただ「川原の上の城跡」と呼ぶのみで、城名も今まで知られていなかったが、この城が松岡城であることが、地検帳により明瞭になった。即ち、地検帳に「オカモト」「北ノマエ」「竹ノ内」「ホキヤシキ」「松ノオ力」「松岡ノ城ノニノ段」「ミソノヤシキ」「川原ノマエ」の順にのっており、土地の順序よりみて、この城が松岡城であることがわかる。
なお、この城は卸直分となっており、元親直前の城である。元親が兵量蔵を建てていたものであろう。もちろんこの管理は、十市備後守が行ない、いざ出陣とか、あるいは龍城の際等の非常のときに用いるようにしていたものと思われる。
地検帳にも城主は記載していないが、十市備後守が吉奈入城前は、岡和泉守の末子松岡四郎左衛門がこの城の城主ではなかろうかと思われる。
この城のすぐ東下の川原に石塚があり、小祠を建てて、土地の人は「マトカワサン」と呼んでいる。これもおそらく松岡が訛って「マトカワ」となったものであろう。