宿毛市史【中世編-戦国古城-】

宿毛町の城跡

宿毛町の城跡図
宿毛町の城跡図

押ノ川城 (玄蕃城)
東押ノ川の北西の山のふもとに「オキノダバ」という所がある。この一角に通称城山と呼んでいる場所がある。山という程の高さはないが、付近の畑より少し上がっていて上は平地である。いま竹が繁茂しているかここが押ノ川城跡であり押川玄蕃が城主を勤めていたところである。この城跡より南西50メートル程隔てた所に、押川玄蕃を祭っている所があって、ここに地蔵さんが建っている。古老の話しによると、終戦まではよく祭礼をしたという。
押川玄藩は、一条氏の家臣であったが、天正3年元親に降り、旧領安堵を得たが、盛親の退国後は伊勢の藤堂家へ七百石で仕えた。
なお押ノ川城跡の西には土居屋敷があり、地検帳に「押ノ川土居ヤシキ、一所拾代、出六代五分才、上ヤシキ、宿毛押川村、押川玄蕃給、主居」とある。押川玄蕃は押ノ川付近で多くの給地かある。

押ノ川城跡
押ノ川城跡

小森城
城跡は、旧和田村小森にあり、『古城略史』に「小森城ハ小森部落の前面郡道ノ南ニアリ」とある。四国運輸宿毛扱所の前に小高い山かある。ここが小森城跡である。今でも堀が残っていて、古城跡の名残りをとどめている。
地検帖に「小森城杢丞ヤシキニ且懸テ、一所拾代、出弐十五代五分、下々山ヤシキ、宿毛稗田村、和田右近給、四良左衛門ゐ」「小森城外懸テ東ノ谷共ニ、一所弐反弐代三歩勺才、下々山畠、内一反十六代荒、今散田、四良左衛門扣」とある。城主は、はっきりしないが、天正3年元親軍に攻め滅ぼされ、その後和田右近に与えたという。

宿毛村地検帳(川ヨリ東)による押川玄蕃給地の例 小森城跡
宿毛村地検帳(川ヨリ東)による
押川玄蕃給地の例
小森城跡

稗田城
和田の老人ホームの南側、通称「イシコ谷」という所に高さ5、60メートル程の丘があり、ここを八龍山と呼んでいる。上部はおよそ30坪くらいの平坦地になっていて、回りに堀があり城跡の形を残している。ここを稗田城跡といっているのである。城主ははっきりしないが、奈須某氏ではなかったかと思われる、今ここにはひのきが植林されている。土地の古老の話しによると、すぐそばに、近年まで八龍王神社があったという。
地検帳によるとこの付近に城があったことになっているので、恐らくここにまちがいなかろう。地検帳などには城名が記されていないが、昔この付近の村を稗田村といっていたことから、ここにあった城を稗田城ということにしたのであろう。
地検帳に「城ノ下内外共、一所弐反拾代、出三十四代四分下、平田城領、宿毛稗田村、奈須分、右衛門大夫給」とあり、これと並んで「八龍王神田谷川懸テ、一所壱反、出三十七代、下、内拾五代荒、同じ領、同じ分、同じ給」とある。

稗田城跡
稗田城跡

和田城
城跡は和田字峰ノ山の西嶺にあり、和田兵衛の本城であった。和田兵衛は、天正2年加久見左衛門、小島出雲守、依岡左京亮等と中村を襲って一条氏の家老達を討ち、翌3年には一条兼定に従って渡川合戦に加わったが、敗れて元親の軍門に降った。
和田の古市村に土居ヤシキかあるので、和田兵衛はここに居たのてはないかと思われるが、はっきりしたことはわからない。この土居ヤシキは後に、和田菊右衛門尉に給されていることか地検帳にみえる。
地検帳「土居ヤシキ、一所参拾代、出弐拾六代、中、宿毛古市村、和田菊右衛門尉給」
和田土居の北隣の和田屋敷には、和田兵衛の嫡男と思われる和田右近か館を構えて居た。地検帳に「ワダヤシキ、一所壱反弐拾代、出六代、上ヤシキ、宿毛古市村、和田右近、主居」とある。
和田氏の一族は多く、この辺にかたまって住んでいたことが、地検帳からもわかるのである。

和田城跡
和田城跡

トカタ城
和田のハナマエ部落の稲毛神社の付近を稲毛谷と呼んでいるが、この神社の上の方(稲毛谷山)にもう1つ別の神社があったが今はない。この付近に城跡があり、今でも回りに堀が残っている。城名ははっきりしないが、竹村照馬氏の資料によると、甫喜村(和田のハナマエ部落あたり)の稲毛谷に和田城の支城、戸方城があって、城士は小栗某であったが、後に川野左馬助になったという。
今ても稲毛谷に小栗姓があり、小栗家は昔からこの地に居て、武士の子孫であるというので、あるいは関係があるかもしれない。
地検帳に「トカタノ城、一所壱反弐十七代、下々畠、内壱反六代一分荒、宿毛甫喜ノ村、和田二任衛扣」とある。

トカタ城跡
トカタ城跡

傾城
『新丞覚書』に『和田傾キ城には川野左馬助とやらん申人城主の由、然ども此段慥には覚不申候」とあり、和田に傾城かあったことはわかるが、どこにあったか場所の確認ができない。

トビガ城
『古城略史』によると、和田部落の南に鳶ヶ城跡があるとある。和田のし尿処理場の少し西の山のふもとを「トビガオ」(鳶ヶ尾)または「トビガ」という。今すぎやひのきを植えている。和田の南に当たる所には、ここ以外にそれらしい所がないので、恐らくここが鳶ヶ城のあった所と思われる。
土地の古老の話しや竹村照馬氏の資料によると、鳶ヶ尾の下には舟付場があって、そこは昔海路、陸路の要所であったため、この付近を守るために城塞を築いたという。
地検帳に「トビカヲノ同し前一反五代地、一所壱反壱代四歩、下、宿毛向山村、中藤分、横山右京進給」とある。

門田城
この城も『古城略史』によると、鳶ヶ城の北中原にあることになっているが、場所の確認ができない。土地の古老の話しによると宿毛大橋の近くに「ナカハラ」といっていたところがあったという。
地検帳の宿毛舟付村に「中原ノ須加崎」「中原ノ北」という地名がある。この付近は今畑や田んぼになっている所と思われる。この付近に城があったとすれば、ここは鳶ヶ尾の近くであり、鳶ヶ城と同様な役目をもっていたものと思われる。

麓城
この城跡もはっきりしないが『古城略史』には「傾城の北にある」とあり、城のあったことはわかるが、どこにあったものかわからない。

北本城
北本部落の有田善三郎の功徳記念碑の東50メートル程の所に、通称権現山または城床と呼んでいる所がある。ここが北本城跡であり、山頂に少し平坦部があり、ちょっとした堀のような跡がある。今ここには古い祠があり、山の神様といっている。
城主ははっきりしないが、北本源左衛門ではなかったかと思われる。この山のふもと一帯を、土地の人々は「ドイヤシキ」(土居屋敷)と呼んでおり、広い畑と住宅が2、3戸建っている。土居屋敷跡には五輪の墓が最近まであったが工事のときどこへやったかわからなくなったという。6年程前にここから人骨や刀が掘り出されたが、これらがいつ頃の物であるかはわかっていない。古老の話しによると、この付近で昔大きな戦いがあったという。
地検帳に「トイヤシキ三所懸テ、一所壱反、出壱反三十六代勺、中ヤシキ、宿毛栖川地村北本源左衛門給、主ゐ」これに続いて「ヲクトノヤシキ、一所弐十代、出四代二歩、下ヤシキ、今散田入上地、宿毛栖川地村、浜田久左衛門給、源十良如」「イノ上ヤシキ前四十代地、一所三十七代、下ヤシキ、宿毛栖川地村、和田菊衛門給、主居」などが記されている。

小高城
『古城略史』によると、小高城は中津部落にあって、城主は和田新蔵人とある。
中津部落というのは中津野部落のことであろう。中津野と小田方にかかっている橋の元(小田方側)に小高(オダカタ)という地名がある。ここに高さ10メートルないし15メートル余りの丘がある。この付近はみかんと樹木が生えているが、この辺が小高城跡と思われる。小高に城があったとすれば、地形からして、この付近以外にそれらしい場所はみつからない。
なお、小田方の古老の話しによると、オダカタに「シロノダン」というところがあると聞いたことはあるが、どこかわからないが、中津野寄りの方ではないかといっている。

本城
城跡は、宿毛の北面にそびえる本城山(金刀比羅山)の峰にある。天正3年一条兼定に味方した宿毛の将兵がここに籠城して、元親の大軍と戦い、敗北したところと伝えられている。
この城は、渡川合戦後、宿毛右衛門大夫が城番となったが、後、文禄のころ野田甚左衛門が入城し、城内鎮護のために、三ノ峰に金刀比羅宮を祀ってから「こんぴら山」と呼ばれるようになった。ついで、慶長6年(1601)に、山内可氏が入城したのであるが、明治2年まで本城山に立入りを禁じたので、不入山(いらずのやま)ともいわれたという。歴代宿毛城主が秘密の城塞としたものであろう。
背後には。大きな石で垣を築いた跡がみられる。
本城山の麓には、支城として、蔵橋城・松田城(宿毛城)来城などがある。

蔵橋城
城跡は、通称城山といっているところで、今、市民の墓地となっており、宿毛市役所の北西の丘である。
城主は蔵橋伯耆守という。天正3年元親に攻められて落城した。
地検帳に「蔵橋城五タン懸テ一所四十代、古城荒、宿毛唐人名村、松田伝大夫給」とある。

来城
城跡は平井村(ニノ宮)の、本城山の東麓を流れる松田川の北岸にある。城主は岸甚兵衛という。ここも、天正3年元親によって落城した。城跡には、今も一筋の空濠を残している。
地検帳に「来城一所壱反拾代。出参代弐歩中、宿毛平井村、岸甚兵衛分、横山権大夫給」とある。

宿毛城 (松田城)
宿毛の北東を流れる松田川西岸の小山にあり、山の下は宿毛土居跡となっている。
この城は、もと松田城と称して、松田兵庫が居たが、その後依岡伯書守の居城となった。天正3年元親に攻められて落城し、長宗我部右衛門大夫か城主となり、更に元親の重臣野田甚左衛門が修復して居城としたか、慶長6年2月山内可氏に明渡された。可氏もまた、城を修築して土佐西部の守りとした。しかし、元和元年(1615)一国一城の幕命により、城を破壊した、城跡には、石垣か残り、後方に1段高く天守の跡も残っている。

『新丞覚書』(1686)に「松田城にはそのいにしへ松田兵庫殿と申人被居候由伝承候、兵庫殿此処に相果候哉。石塔本の西口に御座候、大門の脇に立居申候。竹中半右衛門殿御仕置に成候而か御除被成候。(中略)上の山はなをば笛の段と申候。又矢倉の段とも申候。其仔細は此処に家有番人居申候。いにしへ、世上騒敷時節は、大道往来の者53人も有之候へば、松田城へ知せ申笛を吹き申候。其時松田城より合図請の笛を吹申也。依之笛の段と申候事」とある。
南路志に「松田古城。長宗我部右衛門大夫居之、後野田甚左衛門居之、旧依岡伯耆守居之、与元親戦敗死」とある。
長宗我部右衛門大夫は、地検帳によると「土居、壱反四拾代壱歩、上ヤシキ、宿毛松田村、松田分、右衛門大夫土居」とあり、右衛門大夫は土居に居たことがわかる。
なお、この城跡には、天保3年(1832)に常盤神社を奉斎、ついで、明治4年和田から一宮神社を移し(大正6年更に片島へ遷宮)たが、昭和10年から、石槌神社を置いた。

ニノ宮城
城跡は、ニノ宮字文珠山にあり、文珠山隍城ともいう。本城山の北東に流れる篠川と松田川との出合いにある。城主は、宿毛城番従四位下一条家兵伏随身武者判官二宮房資という。天正3年二宮惟宗の時、元親に攻められて落城した。この時、惟宗は小島出雲守等に北方から攻められ川原谷に逃れて、自刃したと伝えられている。
今、川原谷に惟宗の霊を祀る二宮神社があり、文珠山の城跡には文珠堂が残っている。
地検帳に「ニノ宮城中、一所参拾六代四歩、下山畠荒、宿毛二宮村、宿毛分、今散田」とある。

水盛城
城跡は高田部落の北側の山頂にある。山頂は2段の広大なダバになっており、土地の人々は、上の段を「大サラダバ」下の段を「小サラダバ」と呼んでいる。北側は急斜面になっており、立て籠るに絶好のところである。城跡の南麓に町殿土居跡がある。土居主町某氏は、天正3年元親方の十市備後守に攻められて敗死したという。
地検帳に「町ドノ土居、一所壱反、出四拾代、中ヤシキ、宿毛高田村・町分・吉奈城領」とある。なお、竹村照馬氏の資料によると、ニノ宮(上荒瀬)の小倉山寿福院の『寿福院旧記』に「二宮治部少輔は、文珠山東北地、是隍城跡と云。然して水盛城は、家臣吉田屯の本城なり。天文の頃戦死落城と云。其の砌は本井右兵衛尉殿より村名等高田村と云。」とあり、水盛城主は、町某氏の前は吉田屯、本井右兵衛であったのであろう。

ニノ宮城跡 水盛城跡
ニノ宮城跡 水盛城跡

貝塚城
貝塚村の巌島神社を祭っている山を貝塚山というが、この山に続いた西側を土地の人々は「コシロヤマ」「コジョウヤマ」(古城山)と言っている。ここが貝塚城跡である。もとは小さい山であったが、最近になって削り取ってしまい、今この辺りには住宅が建ち並んでいる。
古老の話しによると、この城跡の近くに最近まで大目氏が住んでいたという。
なお、竹村照馬氏の資料によると、ここにあった城を「今城」といい、城主は法華津弥四郎であったが、のち今城九郎兵衛にわたした。天正3年4月頃元親に占領されたが、同年7月頃一条氏の家臣小深浦城主山本兵庫がこれを奪回しようとして襲撃したとき、悲壮な戦死をとげたという。
宿毛西分の地検帳には次のような記載がみられる。
「今城ノ□、一所参拾四代、下々山荒、錦村、散田、御直分」「但馬ヤシキ六タン懸テ一所壱反、出参拾四代四分、下ヤシキ、宿毛貝塚村、法華津弥四郎分、中村衆柿内五朗兵衛給」

錦城
城跡は、錦部落の西にある小高い山で、ここは佐田紀重氏宅の裏にあたり、「松が下山」と呼んでいる。この山の西側のふもとに「城の後」という地名が土地台帳にある。
松が下山の頂上は平坦部が多く、中央付近は少し低くなって堀のような跡もみられ、つき石の形をした石がたくさんころがっており土地の人々も城跡にまちがいなかろうといっておる。
地検帳に「城ノウシロ、一所壱反三十代、出三十五代四分下、錦村、福井分、小島民部大夫給」とある。『古城略史』に、錦城、城主立田九郎右衛門」とあり、一条氏時代は立田九郎右衛門が居たが、元親に敗れ、元親は小島民部大夫にこの付近を与えたものと思われる。

小深浦城
小深浦部落の入口の西面に「シロヤマ」という地名の山があり、土地台帳にも、「城山」と記されている。この山頂に城跡があり、周囲に堀の跡もはっきり残っている。頂上の面積は約七畝位あり、今ここは吉村鉄男氏と立田秀雄氏が所有しているが、荒されている。
この村の古老森氏の話しによると、錦城は新城の出城で山本兵庫が居たが、元親に攻められて新城に籠って戦ったという。
地検帳に「城ノ下、一所拾五代、出七代壱分、下屋敷、小深浦村、福井分、小島民部大夫給」とある。

錦城跡 小深浦城跡
錦城跡 小深浦城跡

新城
小深浦の背後にそびえる新城山(320メートル)の峰にある。天正3年5月、山本兵庫が小深浦城を落とされ、手兵を率いてこの山城に籠城し、奇計をもって長宗我部の大軍を2か月余りも支えたところと伝えられている。
なお、この城は、御荘勧修寺氏が領有していた出城で、御荘氏の武将尾崎藤兵衛が守っていたようである。

志沢尾城
志沢尾部落の中央につき出た小高い山がある。この山を土地の人々は「フルジョウ」「コジョウ」(古城)と呼んでいる。この山の上が志沢尾城跡である。城跡には一面に雑木が茂っているが堀の跡もみられ、古城跡の面影を残している。
土地の古老中西丑太郎氏の話しによると、ここにあった城は、藤原純友の時代のもので純友城の支城であったときいている。九州の海賊佐伯新九郎がここに籠っていて、この城の南東にある「船場」から船を出し入れして近海を荒していたそうなと語ってくれた。
なおこの山の八合目付近に大きな自然石の墓が4基建っているが、土地の人の話しによるとこの城にいた人に関係ありそうだがくわしいことはわからないといっている。
この城の北西に純友城跡が手にとるように見える。
地検帳に「古城ノ谷、一所拾八代、下山畠荒、大深浦村、大深浦分、今散田、小次良扣」とある。大深浦には古城跡が見られないので地検帳の大深浦村の古城というのは志沢尾部落にある古城のことではなかろうか。この付近の古老にたずねても大深浦村の古城というのは志沢尾部落の古城のことであるという。

宇須々木城
宇須々木旧海軍基地の北の西面に小高い丘がある。ここを殿山とのやまと呼んでおり、地検帳によるとこの殿山に城があったことになっている。現在はここに3、4戸の住宅が建っている。
古老の話しによると、この殿山にある吉岡氏宅の所が城跡だという。吉岡氏の前に松岡氏が居たが、松岡家は絶えてしまった。昔土地の人々は松岡氏を「トノヤマのおじさん」と呼んでいたという。
この城は一条氏の持城で、城番に大脇越前守がいたという。

志沢尾城跡 宇須々木城跡
志沢尾城跡 宇須々木城跡

西城
城跡は宇須々木の三島山にある。ここは岡崎建設のすぐ前の山で、雑木の中に1本大きい松が生えている。このあたりが城跡である。
城主は平能実という説もあり、南北朝時代の古城ではなかろうか。ここに生えている松は昔からいわれのある松だといって誰も切り手がないという。この山の続きの南側に三島社等が飾られている。
地検帳に「西城ノ内、一所拾八代、下畠、宇須々木村、孫兵衛拍、御直分」とある。
なお、三島大明神の棟札に「永享3年(1431)8月平能実造立」とある。

タテ城
城跡は宇須々木字丸山にあり、はなまえの海岸にある小山で、今は山上まで段々畑となっている。土地の人々は、ここを「シロハナ」とか「シロヤマ」と呼んでいる。ここがタテ城跡で、城主は立田兵衛という説もあるが、はっきりしない。この小山の西下に室屋政所屋敷がある。
地検帳に、「タテ詰ノダン、一所拾五代、タテ古城、宇須々木村、太良左衛門扣、御直分」「同しニノ塀五タン懸而、一所仕廿五代、タテ古城、同村、同知、同じ」とある。

松尾城 (純友城)
城跡は大深浦字城ヶ山で、松尾峠の西南の山上にある。承平・天慶の乱のころ有名な藤原純友が持っていた城で、純友か日振島を逃れて行くとき、妻を隠した所である。隠れ場所としては申し分のない所である。
この城のことについては古代編の純友の乱(94頁)で述べているのて参照せられたい。

タテ城跡 西城跡
タテ城跡 西城跡