宿毛市史【中世編-戦国古城-】

小筑紫町の城跡

小筑紫町の城跡図
小筑紫町の城跡図
田ノ浦城
城跡は小浦字城床にある。城主は増田丹後で、丹後は天正3年元親の配下となった。
田ノ浦地検帳の小深浦村に「田ノ浦古城詰ノダン、一所拾四、下畠、藤二良、散田分」とある。また「土イヤシキ、一所弐反、出壱反三十四代、下、内壱反四十四代田分、壱反四十代畠、増田丹後給」とあり、土居屋敷のあったことかわかる。
「城の下浜ヤシキ」「城の下北」等の地名もある。

中野城
城跡は、都賀川にかかっている中野1号橋を渡って、南西へ約1キロメートル程行った所に、中野という所があり、ここに通称「城ノ段」と呼んでいる高さ50メートル程の小山かある。山頂は五畝位の畑となっていて今植林している。この山の下の方に最近まで民家が1戸あったが、今は誰も住んでいない。場所からいって逃げこもるに絶好の所である。土地の古老の話によると城のあったところを段々畑にしたので「城ノ段」と呼ぶようになった。昔、田ノ浦の方で大きな戦いかあったとき、田ノ浦の方から上って来てこの城に立て籠ったという。

伊与野城
城跡は伊与野字城ノ下にある。城主は依岡右京准で、右京進は、天正2年から元親の配下となって諸々の戦功をたて武士頭となった。天正14年九州戸次川の合戦に参加して戦死した。嫡男と思われる依岡弥次郎があとを継いだものか、この依岡弥次郎は、地検帳によると幡多郡下で最高の土地を給与されている。
『南路志』によると、依岡右京進父子の墓が都賀川にあることになっているが、確認できない。

番屋の城
小筑紫小学校の北の山上に古城跡がある。ここを番屋の城といい、のろし場があったのである。
谷真潮の『西浦廻見日記』の、伊与野村についての中に、「人家六拾弐軒、人高弐百四拾余人、土地がらよろしく見ゆ、番屋の城という墟高くて有。ここに狼煙場有。」とある。

福良城
城跡は石原村との境にあたるアタゴ山にあり、城跡付近に祠が建っている。城主は、はっきりしないが、福井兵庫頭という説がある。

石原城
城跡は、石原小学校のすぐ西方に当たる山で、通称「アナガトウ」という所である。山頂付近は今も礎石や土るいが残っており、近くには「マトバ」という所もあり、弓の的のあった所だという。
城主は不明であるが、土地の古老の話しによると、石原の「竹の下」という所に、福井兵庫頭を祭っていた墓が最近まであったが、工事のために取り除かれてしまい今はない。隣の福良部落にも、福井兵庫頭を祭っていた祠があったという。これによると、福良城主と石原城主は同一人で、福井兵庫頭ではなかったかと思われる。彼がこの二城を兼帯していたのかもしれない。
この城主福井兵庫頭は、三崎の加久見左衛門に討たれたという。

中野城 田ノ浦城跡 伊与野城跡 石原城跡
中野城 田ノ浦城跡 伊与野城跡 石原城跡

次にあげるものは、古城とは直接関係はないが、戦場または戦いに関するもののなかから2、3の例をとり出してみたものである。

イクサパ
竹部部落の西の山をイクサバといい、山上は広い畑となっているが、南に四条、北に一条の空堀がある。なお、畑の中には1基の石塚がある。場所としても重要な地であり構えから見ても城跡と思われるが、何城であったか古い記録にも見当たらなく、古老も知らないので、今のところわからない。ただ、イクサバという名前、数条の堀、石塚等より考えて、昔この地で戦いがあったことは考えられる。

貝が森
貝が森
貝が森くずれ
山田や平田等の畑すみあるいは、屋敷すみに、2、3基ずつの墓石のころがったのがよく見受けられる。土地の人は、これを「貝が森くずれ」と呼び、次のような物語が伝えられている。
昔大和国大峰の本山に、諸国の山伏が集まって修験していた。その時、伊予国の修験者福生院と美濃国の利勝院とが、席論をし、そのためついに全国の修験者が東西2組に分かれて大げんかとなり、伊予の福生院は、西国の山伏をひきつれて帰国した。そして四国九州の修験者を催して、平田村螺森(貝が森)にたてこもり、紫燈護摩の祈祷きとうをすること3年。そのために非常に意気は揚り、大勢力となった。
これを知った、美濃国の利勝院は、東国の山伏を集め、西国の山伏を殲滅せんめつすべく、近江国の修験者金剛院を先駈として、下の加江方面に上陸して貝が森を攻めた。この時より西の攻口を闘場とうばといい、南の山腹を旗をかたいで登ったので、旗嵩はただきというようになった。
貝が森にたてこもっていた福生院の党は、不意をつかれて平田・山田・有岡方面に敗走し、これを追撃した利勝院の党と諸所で乱闘が展開され、双方とも多数の戦死者を出した。
福生院は部下の金王院、南蔵院等をつれて、長瀬を経て、伊予にのがれようとしたが、金剛院の追撃が、あまりにも急であったため、何ともならず、ついに長瀬で斃れた。長瀬鳶ノ巣には、福生院の墓があり、南蔵院の墓は長瀬民家の近くに、金王院の墓は長瀬民家の下小松尾麓小喜崎にある。
福生院等を討取った金剛院も傷を被り、竹部までどうにか帰って来たが、ここでとうとうたおれ、死の間際に「余の生国は近江国の栗太郡である。余のはだの中に建部神社の神霊がある。この建部の神霊を祭って宮本大明神とし、余を祭って榿山(かいやま)権現とせよ。」と言い終わって死んだ。墓は竹部栗本にある。
大将の利勝院も傷を受け、貝が森まで引きあげたが「この地に美濃国蔵王権現を祭れ」と言い置いて自殺した。その後、この戦いで戦死した双方の山伏の霊がよくたたったので土地の人々はその霊をなぐさめるために、墓石を建てて祭った。これが現在も所々に残っている「貝が森くずれ」である。
この戦いの年代は不明であるが、その時、利勝院の旅宿となった山田村農夫与左衛門かその時25才であり、その子与兵衛(後に与左衛門という)が小島出雲守政章の近習となっていることより考えて、天文頃かと思われる。

一山屋敷
市山峠の南面の山のふもとに「相ヤシキ」と呼んでいる所がある。ここに3基の古い墓がかたまって建っていて、この中の塞は五輪塔で、土地の人々は昔からこの墓を「ハゲンコウの墓」(八源公の墓)といっておる。これにより、一山八源の館がこの付近にあったものと思われる。
また、市山のバス停より北、50メートル程の所の畑の一角に大きい墓が2基並んで建っている。文字や模様が刻まれているが、はっきりしない部分が多い。ただ「長享」などの年号の文字が読みとれるので1480年代の戦国時代のものかと思われるが、この頃のものであるかどうかはっきりわからない。後の時代に建ったものかもしれない。
土地の人の話しによると、昔この付近は木が生い茂り大きい松が生えていたので、今でもこの場所を「オオマツ」と呼んでいる。この付近に偉い人か逃れてきたが戦って死んだので、その人を祭っている墓だという。
竹村照馬氏の研究資料によると、「オオマツ」付近に一山八源の館があったが、山伏の夜襲を受けて焼かれ、八源は市山峠の南面の白井川館に移ったという。そうすると、一山八源は「相ヤシキ」に移る前は、「オオマツ」付近に館を構えて居たかもしれない。「相ヤシキ」の八源の墓所の南面にアリガ谷という所があり、その谷から小さい川が流れていて部落民が用水にしている。地検帳によると「相ヤシキ」のある付近一帯が白井川村となっているので、この谷から流れている川を白井川といっていたかもしれない。
なお、竹村氏は、白井川館は市山藤介のとき、再び元親の兵に焼かれ、藤介は逃がれたが、後に発見されて殺されたという。市山藤介は一条氏の家臣で、地検帳に「市山分」「藤介分」「一山藤介分」として、押ノ川や一山村などに多くの土地を持っていたことが記されている。
一山八源の墓
一山八源の墓