宿毛市史【近世編-伊賀氏-伊賀氏の先祖】

山内氏の先祖

山内氏は、藤原鎌足の7代の後裔藤原秀郷の流れをくむ家系であり、更にその10代の孫首藤俊通が、鎌倉の山内庄を領してから、山内氏を名乗ったといわれている。
その後裔山内久豊、盛豊は、旧領の丹波を去って、美濃を経て尾張に入り、盛豊は織田信安に仕え、その家老として羽栗郡黒田城に居城することとなった。
この盛豊の子が通であり、一豊である。通は天文2年(1533)、長男の十郎は天文11年(1542)、二男の一豊は天文14年(1545)にいずれもこの黒田城で生まれている。
一豊が生まれた時は通は13才であったが、この年、この黒田城から安東郷氏に嫁したのである。しかし、黒田城は弘治3年(1557)7月、野盗の襲撃をうけ、その時嫡男十郎が16才で死亡した。
盛豊はこの時、家臣祖父江道印に導かれて、黒田城を脱出し、岩倉城へ逃れた。しかし、この岩倉城も織田信長に攻められ、永禄2年(1559)の春には落城し、盛豊は家臣祖父江導印たちと自刃して果てた。
父盛豊の死亡とともに、一豊は母や弟妹たちとともに祖父江勘右衛門に導かれて、祖父江村に逃れ、間もなく尾張の浅井政高のもとに落付いた。この頃一豊の家族の者は縁故を頼って四散し、一豊もやがて政高のもとを離れ、美濃の前野長康を頼り、更に永禄3年(1560)には牧村政倫に仕え、ここで最初の武功をたてた。時に一豊16才であった。この年一豊は近江の山岡景隆に仕えて二百石を給せられ、やがて政倫の推挙で木下秀吉に仕え、天正元年(1573)の姉川の戦で敵の猛将三段崎勘右衛門を討ち取り、その武功によって秀吉の腰母衣こしほろ衆に加えられ、秀吉の居城長浜から一里ばかり北にある唐国四百石の地を与えられた。
一豊は天正3年(1575)秀吉の部下として、長篠の合戦に参加したのをはじめ、天正12年(1584)の小牧長久手の戦まで、各地に転戦して功をあげ、その結果、近江の長浜に移されて五千石を給せられ、天正13年(1585)には若狭国高浜に移ったが、秀吉の甥秀次が近江八幡に封ぜられるに及んで、秀次を補佐する老臣の一人となり、再ぴ長浜に封ぜられて二万石を領し、在城5か年、この間に姉の通、その子可氏を長浜へ呼びよせたのである。

山内氏系図 一豊御武功記 長浜城跡
山内氏系図 一豊御武功記 長浜城跡