宿毛市史【近世編-伊賀氏-伊賀氏の先祖】

守就と郷氏の奮戦

守就は斎藤氏に従っていたが、当主の斎藤龍興は幼少のため政を失し、部下の諸将もようやく離反の色が出て来た。戦国時代の武将としては結局強い者に従わざるを得なかったのであろう。西美濃3人衆も、永禄10年(1567)織田信長に内応して龍興をほろぽし、信長の配下となった。
元亀元年(1570)6月、江州姉川の合戦の時、浅井長政の軍勢が、信長の先峰坂井政尚、池田信輝の備えを破って攻めよせて来た。信長はこれを見て、守就と氏家経国(直元)に命じて敵の側面をつかせた。守就の子息次左衛門と守就の弟郷氏は、共に守就の軍に属して奮戦し、浅井長政の軍を大破して多くの首級をあげた。信長はその手柄によって、守就に感状と、刀一口、馬一匹を与えている。
翌元亀2年(1571)5月、信長が尾州長島の一向一揆を討ったとき信長は、守就や郷氏、柴田勝家、市橋九郎左衛門、氏家経国、稲葉通朝等二万余人の兵を率いて美濃国多芸口に戦った。しかし、一揆の軍勢が強くなかなか進撃することができなかったので、信長は火を放って退却するように命じた。柴田勝家はその命により、民家に放火して退却しようとした。だが一揆軍の追撃は急で、太田川に舟数十績艘を浮かべて弓や銃を乱射し、その1矢はついに勝家の股を貫いた。勝家は大いに怒り、命令に反して軍勢を立て直して之に向おうとした。守就はこれを止めさせ、殿しんがりを引き受けて勝家を無事に去らせた。その時間道より敵兵5、60人、或は7、80人が一挙に現われ守就と郷氏兄弟の軍勢を取り囲んだ。守就は不意をつかれて極めて苦戦となり、守就、郷氏兄弟は重傷を受けて歩くことさえできなくなった。今はこれまでと兄弟は覚悟をきめようとしたとき、守就の五男守重の援軍が来た。更に守就の臣今枝源太郎、福田左近、郷氏の臣玉田総右衛門等がよく奮戦し、玉田総右衛門は敵の馬を奪って郷氏に乗らせ、守重は父守就を肩にかけ、ようやく退いた。こうしてやっと守就兄弟も退去することはできたが、この日風雨は夜になってもますます強く、敵の追撃も急で、ついに氏家経国は戦死した。(岩村通俊『伊賀氏先世略記』による)

片桐靱負より郷氏への寒気見舞
片桐靱負より郷氏への寒気見舞