宿毛市史【近世編-伊賀氏-山内一豊と可氏】

可氏と岩手城

北方城の合戦たけなわの時、郷氏の妻通は、一子藤太郎(後の可氏)及ぴ郷忠(守就の末子)を連れて囲みをくぐって逃げ、玉田九右衛門等が護って竹中重門の岩手城に逃れた。一説には稲葉一鉄の孫典通が、一鉄の臣石川三左衛門と議して可氏母子を逃がしたともいう。(伊賀氏先世略記)
竹中重門の父は竹中半兵衛重治である。重治はその軍才によって秀吉に重用された人であるが、その妻が安東守就の二女であった関係で、その子重門を頼って逃れたものである。
重治は天正7年(1579)6月に36才で病没している、その時嫡子重門は7才であったので、一族の源介が後見をしており、天正16年(1588)に家督を継いでいる(垂井町史)ので可氏母子が頼った天正10年(1582)は源介の後見のときとなる。
岩手城は現在の岐阜県不破郡垂井町にある。垂井町は岐阜市の西方22キロメートルの地点にあり、もう5キロメートル西へ行くと関ヶ原の戦で有名な関ヶ原町となる。この垂井町の北西部に、岩手や菩提の部落があるが、竹中半兵衛重治は菩提に山城を造り、岩手に居館を構築したのである。
菩提山城は菩提部落の北にあり、標高350メートルの山城である。岩手部落にある居館跡は、現在でも城門、石垣、壕などが残っており、その跡地は岩手小学校、岩手中学校の敷地となっている。菩提山城は、いざという時の城で、平素は岩手の居館に居たと考えられるが、可氏母子がかくまわれたのは、この居館であるのか、山上の菩提山城であるのか判明しないが、多分岩手の居館であろう。
とにかく一族がほとんど討たれてしまい、可氏母子及ぴ郷忠の3人だけが岩手城にかくまわれ、育てられたのである。この岩手城に居ること3年、天正13年(1585)には、長浜城主となった一豊に呼ばれて長浜に行くのである。
竹中半兵衛邸跡 岩手小中学校より菩提山城を望む
竹中半兵衛邸跡 岩手小中学校より
菩提山城を望む