宿毛市史【近世編-伊賀氏-山内一豊と可氏】

関ケ原の戦

秀吉は慶長3年(1598)8月、慶長の役の朝鮮出兵の最中に死亡した。秀吉の死亡前より文治派と武人派の対立はあったのであるが、死亡後はますますはげしくなり、文治派の石田三成と武人派の家康との対立は深刻になってきた。
家康は、会津の上杉景勝を引き入れようとしたが、景勝はその意に反して会津に帰り、戦備を整え、家康の上洛命令にも従わなかった。家康は、景勝の行動は豊臣政権への反逆であるとしてこれを討伐することとし、慶長5年(1600)6月2日出兵の命を下した。景勝討伐に向った兵は、家康の臣三千余人と豊臣恩顧の武人派を合わせた5万5千の大軍であった。
一豊もこの軍に加わり、可氏ももちろんこれに同行した。年譜の可氏の条には、
一、慶長五庚子年景勝御退治の為、両御所御動座、其節供奉をなし、御あとより一豊様御出勢の砌、下野小山迄御供、関ケ原御陣御供。

とある。
これは、家康が伏見城を出発するのに先立って一豊は掛川に帰り、家康の掛川通過の際にその接待をしたのであるが、この時可氏は一豊と同行せず、家康と行動を共にして掛川まで来、そして掛川からは一豊と行動を共にして、会津攻めに向ったのである。
家康は7月24日、下野の小山に到着したが、そのすぐ後で石田三成が、伏見城を攻撃するであろうとの報告を受けた。そのため家康は、諸将に直ちに小山に集合をするように命じ、一豊、可氏も小山に集合したのである。
この時一豊の妻は大阪で人質となっていたが、一豊に宛てて密書を送った。一豊はその密書を未開封のまま家康に見せ、家康を感激させた。家康は小山で軍議を開き、会津討伐を中止して石田三成と決戦すべく西上したのである。
こうして両軍は関ヶ原に対決し、天下分け目の戦といわれた関ヶ原の戦となるのであるが、一豊はもちろん家康の東軍に属し、可氏もこれに同行したのである。
この戦では、一豊軍は第一線には出ず、東軍に内応している毛利、吉川隊の動きを監視する役に回されている。そのため、この戦での直接の戦功はあまりなかったのであるが、もしもこの時、毛利、吉川軍が西軍として動けば、安国寺や長宗我部等の軍が家康の本陣を背後や側面からつく可能性もあり、これをおさえた一豊の功はやはり大きかったのである。
これらの功により一豊は、遠州掛川から、土佐二十四万石の藩主となり、可氏は宿毛へ配置されるのである。

可氏着用の鎧
可氏着用の鎧