宿毛市史【近世編-伊賀氏-山内一豊と可氏】

一豊の土佐入国

一豊は関ヶ原の戦の後、大阪に居た家康から土佐の国を与えられ、ここ待望の一国一城の主となった。この命令は正式には慶長5年(1600)11月であるといわれているが、12月になると弟康豊を先発隊として土佐に入れた。長宗我部の遺臣たちの抵抗もあったが、無事に長宗我部の居城であった浦戸城を接収し、年末に大阪を出発した一豊は翌慶長6年(1601)1月2日に甲浦に上陸し、陸路を選んで1月8日浦戸城に入城した。行列は皆具足をつけていたといわれ、いざとなれぱ戦いができる態勢であった。この中に可氏母子が入っていたことはいうまでもない。
一豊は4月1日には領内を視察するため、浦戸城を出発して甲浦から宿毛に至るまで、土佐7郡を回り、国内の状況を視察して、諸民に安堵の書状を与え人心の安定をはかった。その巡視の結果、6月には弟康豊を中村に封じて二万石を与え、各要地にそれぞれの重臣を置いて支配させた。
    慶長六年六月旧功恩顧ノ臣藩屏左之通
高岡郡佐川城  先主久武内蔵助  一万石  深尾与右衛門改メ和泉重良
同郡  窪川城  先主吉田備中守  五千石  山内伊賀一吉
幡多郡中村城  先主長宗我部城代  二万石   御舎弟修理亮康豊
同郡  宿毛城  先主野田甚左衛門  七千石  山内左衛門佐可氏
長岡郡本山城  先主本山将監  千三百石  山内将監一照                  
安喜郡安喜城  先主十市新左衛門  千百石  五藤内蔵助為重
                  (山内氏家系)

こうして可氏は宿毛を領することとなり、ここに宿毛山内氏(伊賀氏)がはじまったのである。佐川城主となった深尾重良は、可氏の姉の夫であり、可氏とは義理の兄弟である。
これらの重臣のうち、幕末まで家名が続いたのは佐川の深尾氏、安芸の五藤氏と、宿毛の山内氏(伊賀氏)だけで、本山の山内氏、窪川の山内氏、中村の山内氏は後に断絶した。