宿毛市史【近世編-伊賀氏-可氏と宿毛】

可氏の宿毛入城

可氏の宿毛入りについて、土佐国老年譜の可氏の条には次のように記されている。
一、慶長六丑年御入国の節御供仕、宿毛境目へ城地仰付られ同年2月初に宿毛へ参る。其刻一豊様より御具足並に信国の御刀、御国馬一疋拝領の由申伝う、宿毛へ参る節は先国主長曾我部の家臣宿毛城主野田甚左衛門罷有土居、只今の屋敷へ直に参着、上之山城修復居住也。元和元乙卯年天下一国一城仰せ出され同2年城毀の由承伝。
とある。これによると可氏は一豊の命で、慶長6年(1601)の2月初め、宿毛に着き、直ちに野田甚左衛門の居た土居に入り、山上の城を修復した事になる。この時可氏は、一豊から、具足、信国の刀、馬一疋を拝領している。
一、慶長六辛丑年御知行六千弐百石の内(与力三千四百石外)北方殿へ弐百石之を下し置かる。 8月19日
     一豊様御判物頂戴也
とあり、その墨付は現在も伊賀家に保存されている。可氏は、知行の墨付をもらう6か月前、2月初めに領内の治安を保つ目的で宿毛へ来たということになる。
宿毛城は旧名を松田城といっていたが、その後、宿毛城というようになったものである。現在この城跡は、宿毛中学校の東隣の小山の山上にあり、石槌神社が祭られている。その山城の周囲には所々石垣が残って、昔の面影をわずかに残す程度である。城跡の北東部は道路をつけるために削られ、北部は宅地造成のために石垣が落ち、旧城の姿が次第に少なくなってきているのはまことに残念である。この城は、もと松田兵庫の居城であった。その後依岡伯耆守、更に長宗我部右衛門大夫がおり、その後野田甚左衛門(宿毛甚左衛門)が居たのであるが、可氏の入城とともに城を明け渡し可氏は城を修理して居城となし、そのふもとの土居を宿毛土居と称して館とし、平素はここに住居していたのである。この土居は今、宿毛中学校体育館や宿毛保育園、宿毛小学校運動場などとなっている。
松田城については前記伊賀家々譜のほかに次の記録がある。

貞享3年91才宿毛村紺屋新丞覚書
一、御屋敷の儀龍谷様(可氏)宿毛へ御座なされ候時、今の御屋敷野田甚左衛門殿御住居之所へ御落着なされ候。上の松田城御普請なされ候て、城に御座なされ候。下に御家御座候。夫をば下屋敷と申候。即ち野田甚左衛門殿御座候家にて候其後一国一城と被仰出と御座候時、城をば御毀なされ候。
北方様御部屋は川戸の堰ぎはの辺に御座候。
一、松田城とはそのいにしへ松田兵庫殿と申す人居られ候由…
『南路志』には
松田古城、長曾我部右衛門大夫居之、後野田甚左衛門居之、旧依岡伯耆守居之与元親戦敗死云々
とあって依岡伯耆守が元親と戦って破れたとなっている。松田兵庫は依岡伯耆よりも前の城主であったのであろう。
可氏はこの宿毛城のほかに、康豊の居城中村城の普請も行なっている。
『憲章薄』、藩志内篇三の慶長18年(1613)の所に「幡多郡中村ノ御城御普請ヲ山内左衛門佐、山内右近、祖父江宮内、中島十右衛門、中村十兵衛(宮内以下3人中村付)等ニ命セラル御横目トシテ三浦彦十郎ヲ差立ラル(御家御普請巻)」
しかし、翌慶長19年(1614)にはこれらの城普請役の者は江戸に呼びつけられている。それは、この人々はその土地に居住の者だからわざと命じて呼ぴ出したのであろうと御普請御勤巻に書いている所をみると、幕府はこの城普請を止めさせる考えであったもののようである。
事実翌元和元年(1615)、大名の居城のみを残し、其の他の城はすべて破却するようにとの命令が幕府から下り、中村、佐川、宿毛、窪川、本山、安喜の諸城をすべてこわしてしまったのである。(『憲章薄』)

宿毛城跡 宿毛土居 宿茂絵図 紺屋新丞覚書 可氏書状
宿毛城跡 宿毛土居 宿茂絵図 紺屋新丞覚書 可氏書状