宿毛市史【近世編-伊賀氏-可氏と宿毛】

宿毛領

山内氏家系では、可氏は七千石で宿毛を領したようになっているが、この七千石は後のことであり可氏が宿毛へ配された時は六千石である。このほかにその母、北方殿へ二百石が与えられているので、併せて六千二百石といってもよいであろう。
慶長6年8月19日に発せられた一豊の墨付が現在伊賀家に保存されており、当時の六千石の様子を知ることができる。
宿毛六千石の一豊の墨付
宿毛六千石の一豊の墨付
  一豊公御墨付(伊賀家蔵)
宿毛城付
一、  六千石  幡多郡之内
   内
  百拾弐町弐拾九代弐分  宿毛川より東
  七拾四町五反四拾七代弐分  同村二宮
  城つき百弐拾参町三反廿代五分  同村川より西本村
  参拾八町廿三代  同村川より東押ノ川
  参拾八町四反十一代壱歩  同村中津野村
  拾壱町六反拾三代  城つきもく津村
  八町三反廿二代四歩  同樺村
  九町七反卅八代五歩  同小深浦
  弐拾壱町八反九代三歩   同錦之村
  弐拾三町八反十八代  同大深浦
  弐町七反四拾壱代五分  小尽
  城つき参町八代  泊
  弐拾五町五反拾九代弐歩   宇須々木
  六町七反卅四代四分  呼崎
  弐拾町六反四十代壱歩  窪川
  参町八反四十六代壱歩   草木藪
  九町三反廿三代弐分  野地
  六拾六町弐反   城つき平田村の内寺山、黒川
      合六百町
 
  弐拾町  北方殿へ  平田村之内
    已上
右全可令領知者也 仍如件
  慶長6年8月19日
                     一豊 花押
     山内半左衛門殿

となっている。北方殿というのは可氏の母で、半左衛門というのは可氏の初めの名である。この墨付をみると、領地はすべて町反歩で表わされており、その合計が六百町で、六千石となっている。土佐では石というのは面積のことで、一石は一反歩のことであり、十石で一町歩(1ヘクタール)となり、六百町で六千石となるのである。
前記の黒付をみると、宿毛領の範囲は旧宿毛町内(旧和田村を含む)はほぼその全域、小筑紫町では呼崎と小筑紫の一部だけ、平田町は三二三〇石の内北方様の二百石を加えて八六二石、それに大月町の泊浦だけである。橋上町と山奈町は宿毛領の中には全然含まれていない。
この宿毛領は後世には七千石となったのであるが、それは当初の領地のほかに山田村で百七十石、大島村で五十余石、奥猿野村(土佐清水市)で二三〇石が加えられたり、小筑紫の二七石が六十石と多くなり、平田、中山で二百石も多くなったためである。
『南路志』には宿毛七千石を次のように記している。
宿毛領七千石   
千百七拾余石   宿毛、与市明、貝塚村
弐百四拾四石   山北村
三拾余石   草木藪村
五拾余石   野地村
五拾余石   大島浦
百七拾石   錦浦
九拾余石   深浦(小深浦)
弐百四拾石   大深浦
八十余石   樺村
弐百五十余石   宇須々木村
百拾余石   木津村
百六拾石   坂下村
六十石   呼崎村
六十石   小尽村
弐百参拾石   奥猿野村
千百参拾石   和田村
三百八十石    押川村
三百八十石   中津野村
七百五十石   二宮村
百九十余石   中山村
八百七十余石   平田村
百七十石   山田村

山田村一九三六石の内百七十石が領内になり、平田村(中山を含む)三二三〇石のうち千六十石が領内になっているが、吉奈村は全然領内の中に入っていない。山田村の庄屋の中に宿毛領庄屋というのがあるのも、このように山田村が分割統治されていたためである。
宿毛領をまとめてみると次のようになる。宿毛本村、坂ノ下村、和田村、押ノ川村、中津野村、ニノ宮村、野地村、窪川村(のち山北村)、草木藪村、錦村、小深浦、大深浦、樺浦、宇須々木村、藻来津村、大島村でこれら16か村は、藩政時代の宿毛郷で、その全部が宿毛領である。(これが明治22年には和田村と、宿毛町になった。)宿毛領はこの外に呼町村、小尽村、泊浦、奥猿野村及ぴ、平田村、山田村の一部が加えられていた。
宿毛領七千石のうち、家臣に配分したのは二千四百十五石であった。領主は四千三百八十石を取っていたが、その収入の中から与力騎馬以外の扶持取りの家臣に扶持を与えていたのである。
天保14卯年2月
    土陽御家中分限録
  宿毛土居附
  本名安東 山内太郎左衛門
         同 千之助
  一、 知行六干八百石
  四千三百八十石  自分所務
二千四百十五石  与力騎馬
  一、 新田役知 二百二十石
  合七千二十石
  但勤役御在府中ハ五十人扶持附