宿毛市史【近世編-伊賀氏-節氏公の事蹟】

節氏公の事蹟

山内節氏は正保4年(1647)父定氏のあとを継いで15才で第3代の宿毛領主となり、元禄11年(1698)死亡するまで50年間も土佐藩の家老として、土佐の政治にも力を尽すと共に、その領地宿毛の開発のために種々の事業を行なったのである。
節氏が領主となった頃は、野中兼山が奉行職として大活躍をしていた時であり、兼山の死亡する寛文3年(1663)まで節氏は15年間も兼山の指導を受け、或は命をうけて種々の事業を行い、兼山死亡後も兼山の開発精神をそのまま引き継いで、節氏独得の大事業を次々と行なったのである。
節氏の代の事蹟については、『清文公御一代記』に詳しく記されている。
兼山の事蹟の中で述べる宿毛総曲輪や河戸の堰の構築も、勿論節氏の代であり、兼山の命で始められたとはいえ、実際の監督、指導は宿毛の侍たちが行なっているのである。その他沖の島国境争い、篠山国境争いも節氏の代であり、特に篠山の事件では兼山の指導で節氏は実際に小川平事件での実力行使をするなど、かなり心を痛めつつこれに対処しているのである。その他の節氏公の事蹟を、『清文公御一代記』をもとにして記してみる。

清文公御一代記
清文公御一代記

新田の開発
節氏の代に新田千五百石(150ヘクタール)ぱかりを開発している。
これらの新田の中には明らかに兼山の指導で行われたものもある。兼山が高知吸江の清左衛門を雇って、宿毛に新田を開発させているのである。
一、同(明暦)3(1657)丁酉年吸江の清左衛門と申もの、塩田方の功名の由にて野中伝右衛門殿(兼山)御雇候て、宿毛へ御指越、仏崎の大堤、丸島の堤、忠田の堤等築き、大深浦口、小深浦口の塩田是より出来仕り候。(『清文公御}代記』)

とあり、仏崎、丸島、忠田の堤を築いて大深浦口、小深浦口の新田を造っている。
塩田というのは、瀬戸内海方面でいう塩を造るための塩田とは異なり、潮をせきとめて干拓して造った水田のことである。塩をとるためのものは塩浜といい、塩田と塩浜は別のものである。
一、御領内新田地高百五十四町一反余、宿毛本村、錦、小深浦、大深浦、樺、宇須々木、大島、坂ノ下、和田、押川、寺山、平田、呼崎、小尽、ニノ宮、野地、小川、窪川、18ケ村に右の通り御座候。何れも清文公(節氏)御代、明暦元年には吉田九郎左衛門殿、延宝7年には小森喜八郎殿、寺村文四郎殿、元禄10年には中見方諏訪半兵衛、中村善丞、谷忠左衛門、山崎又三郎、森沢九蔵検地これあり候。(『清文公御一代記』)

明暦元年検地の分は、明らかに野中兼山の許可か指図をうけているものと思われるが、延宝7年元禄十年検地のものは、兼山の没後16年と34年となるので、兼山の指図ではないが、兼山の開発精神が大いに影響したことには間違いないであろう。
宝永4年(1707)の大地震の復旧工事の見積りを記した口上覚書によると、
3代源蔵(節氏)の代に「新田干五百石ばかりを築き」とあり、4代蔵人の代に「宝永の地震で右新田悉く破損し、潮入、本知内も段々荒地に相成」とあり、その破損した堤と新田について、錦口堤百七十五石、垣ヶ瀬戸堤八五石、福良口堤二百石、志沢口池浦堤百二十石、片崎平五兵衛潮田堤五五石、大島村の仏崎より片島迄堤、中田堤、ハダカ島堤六百八十石、総地高一三一五石が記録されている。これらがすべて節氏の代に開発された新田である。
これらの新田を耕作していくためには、用水池や井関、井溝等が必要である。節氏はこれらの事業も大々的に行なっている。

口上覚書
口上覚書

用水池の構築
節氏の代に稲作用の用水池を大小28か所構築している。
藻来津村 4か所 ほうじ、西弓がさこ、東大和田、谷田下池
宇須々木村 2か所 十まい上、下
椛村 2か所 鱶がはえ、石神谷
大深浦村 3か所 本越池、屋ぴ川谷、寺の脇
小深浦村 2か所 経塚、同
錦村 2か所 神田の谷、小吹の谷
和田村 3か所 御堂の谷、から川谷、猪の尻
平田村 2か所  
寺山村 2か所 いだち口、本坊
押川村 5か所 小路口、北谷、養阿弥、宗六、市山寺中
呼崎村 1か所 寺の谷(清文公御一代記)

井関の構築
節氏の時代に宿毛大関(河戸の堰)の外に9か所の井関を造り、この関から用水路を引いて水を水田に入れ、稲作用にあてたのである。

宿毛 1か所 宿毛大関
小尽村 福良川に1か所
二宮村 3か所 平井、蕨尾、櫛の崎
野地村 2か所 本村、中ケ市
和田村 2か所 小田形、上荒瀬
中津野村 1か所 筏付   (清文公御一代記)

井堰の構築
井堰の構築

堤の構築
節氏の代に宿毛総曲輪の他に次のような堤も築いている。
  和田村の内堤、小田形、上荒瀬(長さ一二〇間)、谷川口よりはやけ迄(長さ三〇四間)3か所
  中津野村の内堤、筏付井峠より車口迄(長さ五一一間)2か所
  中津野村  赤坂原4か所に川除底関(長さ一六〇間)(清文公御一代記)

塩浜の構築
塩浜というのは製塩用の田のことである。
節氏公は兼山の死後4年目の寛文7年(1667)に塩浜開発を願い出て翌8年孕石頼母、百々刑部の裏判を得て14の塩浜を造っている。しかし、成績が悪く、後には3浜だけとし、他は稲作に転換させている。(清文公御一代記)

町の区画整理
節氏は明暦2年(1656)に新町(上町)の町割りを行なっている。その他小姓町と池内甚五兵衛前の町、牛の瀬土手町(現上町)の町割りも行い、元禄10年(1697)には火の用心のために本町両側に井溝をつけたこと等も『清文公御一代記』に記されている。

寺社の建立
節氏は、東福寺本堂と庫裡を延宝8年(1680)に、妙栄寺を天和2年(1682)に、和田の一宮神杜を貞享3年(1686)に建立している。(清文公御一代記による)
以上のように節氏の代の諸工事はものすごい量で、宿毛発展のために尽力した節氏の功績は、兼山をはるかに凌駕するといっても過言ではないようである。節氏の代は本田六千八百石と新田千五百石よりの収入があり、災害も大きなものはなく、宿毛歴代領主の中で一番盛んであり活気に満ちていた時代であったのである。