宿毛市史【近世編-野中兼山と宿毛-】
兼山と宿毛との関係
野中兼山は土佐藩の奉行職となり、2代藩主忠義の絶大な信任を得て、画期的な産業開発政策を行なった大政治家である。
宿毛には、多くの兼山関係の遺蹟があるが、これには兼山と宿毛との血縁的なつながりも大きな影響があるのではなかろうか。
まず野中家の家系から宿毛との関係を見てみることとする。
野
中
道
永
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伯
仙
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妻 益 妻 良
一合==継 一合==平
豊 | 豊 |
の | の |
妹 | 妹 |
| |
妻 直 良
可よ==継 明
氏め | |
の | |
子 | 夫<--------------|
市=良 良
継 兼継
山
山内一豊の妹、合姫は、はじめに野中良平に嫁して良明を産んだ。しかし良平が死亡したので、その弟益継に再び嫁し、直継を産んだ。
良明は土佐の国老も勤め、一豊の信任も厚く、中村二万石をやるという約束さえもらっていた。だがこの約束を一豊が破り、中村二万石を康豊に与えたため、良明はその処置をいきどおり、他国へ出て浪人となったといわれている。(兼山関係文書)その浪人中の元和元年(1615)に良継(兼山)が生まれたが、父良明は元和4年(1618)に死亡、そのため良継は母と二人で流浪生活に入り、転々として辛苦をなめていたが、寛永4年(1627)、直継の養子となって、母子共に泉州の堺から海路土佐に入ったのである。
一方、直継は宿毛の領主可氏の娘よめを妻として市を産んだ。その他に男の子もいたが幼時に死亡したので、市に養子を迎えることとなり、良継(兼山)がその養子となったのである。
こうして、兼山の妻市は宿毛の可氏の孫という関係であり、兼山と宿毛とは最も近い間柄となったのである。
後年兼山の死後、遺族8名が罪にとわれ、宿毛に流されたのであるが、これも右のような血縁関係によっての事である。
現在宿毛には、兼山の子供6名、妻市、妻の母よめ等野中一族の墓もあり、宿毛と兼山との深いつながりを物語ってくれている。
また兼山の祖母は合であり、宿毛二代領主の定氏やよめの祖母は合の姉の通である。このように兼山そのものも、定氏やよめとはふたいとこの関係となっている。
山
内
盛
豊
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合 康 一 通
| 豊 豊 |
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| | |宿
妻直 良 可毛
よ継 明 氏初
め| | |代
| | |
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市===兼 | |
山 二 よ
代 め
定
氏 直
| 継
三 に
代 嫁
節 す
氏
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野中兼山像 |