宿毛市史【近世編-野中兼山と宿毛-】

兼山の事蹟

兼山の養父直継の知行所は本山であった。寛永13年(1636)直継が没すると、兼山はそのあとを継ぎ、22才で奉行職となった。それから寛文3年(1663)に引退するまでの27年間、奉行職として大きな力を発揮し、多くのすぐれた事蹟を残している。
あまりにも有名な兼山であり、彼の事蹟はすでに多くの本に記されているので、ここではごく簡単に表にして出すにとどめたい。

  兼山の事蹟
一、堰並びに用水路
 物部川山田堰、野市上井堰、野市下井堰
 吉野川下津野堰、井口堰、ノボリ立堰、カタシ堰、下麦山堰、トドロ堰、新井堰、井口堰、宮古野堰
 仁淀川八田堰、鎌田堰
 後 川カイロク堰、麻生堰
 松田川河戸堰
   以上堰の数17か所、幹線水路の延長130キロメートル
 右の堰や水路の外に中筋川下流の排水工事、宿毛の総曲輪の築堤等多くの土木事業があり、兼山によって新たに開拓された水田は十万石(一万ヘクタール)といわれている。
二、築港
 津呂港、室津港、手結港の開さく、浦戸港の改修、下田港の開さく(未完)、柏島港の改修と築港築堤。
三、町の創設
 野市町、山田町、後免町、新川町の創設。
四、産業の開発
 陶器工業の創設(尾土焼)、有用植物の保護、養蜂業の創始、水産物の繁殖、特産物の保護。
五、社会制度の改善
 郷士制度の創設、山林制度の制定、専売法制定。
六、風教の刷新
 南学奨励、冠婚葬祭の改善、節酒、奢侈禁止等(松沢卓郎著野中兼山より)

山田堰 柏島港
山田堰 柏島港