宿毛市史【近世編-野中兼山と宿毛-】

兼山の失脚

野中兼山は、土佐藩の奉行職として、20数年間に幾多の大事業を行ない、国境問題の処理にも、大活躍をしたのであるが、短期間にこれだけの事業を強行したため非常に多くの無理が生じたのである。百姓たちが、あまりにも多い労役に、疲れはてたこともあったであろう。そのためか、国外に逃げ出す者も出たようである。土佐の国力が強大になるのを喜ばない江戸幕府が、兼山を冷たい眼で見ていたこともあったようである。又、兼山1人の活躍を嫉妬した他の家老達の反感もあったと思われる。
家老深尾因幡とその父出羽重昌、家老山内下総の3人は、藩主忠義が隠居して間もなくの寛文3年(1663)に意見書を新藩主に届けるべく、生駒木工、孕石頼母に提出したのである。
その意見書の内容は、
  以前はよく治っていたが、近年は上下が困窮している。
一、御政道に不当がある。
一、百姓に課役が多過ぎ酷使している。乞食同然の窮民にまで課役する。そのため国外に逃げようとする者まである。
一、商人もあまり掟が厳しいので、商売ができなくて困っている。
等であった。この意見書を見た藩主忠豊は、直ちに兼山にこれを見せ、今後悪い所を改め、他の者とも相談して政治をするようにと申し付けた。
兼山は、自分の政治生命も、もはやこれまでと思い、寛文3年(1663)9月、直ちに引退し、家督を長男清七に譲り、香美郡中野村に隠居したが、その年の12月15日、49才で病没した。慧照院宗覚日相幽儀とおくり名され高知の筆山に葬られた。『大海集』に彼の辞世の歌を伝えている。

  わかれ行く名残は露も残らじぞ連枝の中をやわらげてすめ

兼山終焉の地
兼山終焉の地