宿毛市史【近世編-野中兼山と宿毛-】

兼山遣族の配流

兼山死亡後も、兼山反対派は追及の手を緩めず、ついに寛文4年(1664)3月2日、藩主忠豊は家老山内節氏を城内に招いて、兼山遺子を、一先ず宿毛へ預けることを内命した。
そのため節氏は、翌3月3日清七を屋敷に呼び寄せ、深尾帯刀、山内彦作、山内節氏の3名から、次のような罪状を申し渡した。
罪状
野中伝右衛門(兼山)儀、1国の政治を1人に任せていた所、やり方が悪いので辞めさせて隠居させ、その後、国中の調査をしたところ、伝右衛門の不届の所行は言語に絶し、それ故罪を申し付けようと思っていた所、去年の冬に病死したので、罪につけることができなかった。その代りとして清七を、先ず山内左衛門佐(節氏)に預ける。伝右衛門の罪の条々は、左の通りである。
一、私欲を専らにし、上をないがしろにし、おごりを極め、えこひいきで事を取り扱ったので、諸侍は上を恨み、下民は困窮して来たこと。
一、我々父子(忠義と忠豊)の用事の使をする時、中でかすめとり、自分勝手に働いたこと。
一、一国の財政も、寛文元年に勘定した時には、水火の災害を救う金はあるとの事であったが、この度調べてみると、数年間算用もせず、引渡しもせず、その上一国の金銀を勝手に使い、水火飢饉の時に救う金銀も無くなっていること。
一、改替の時、悪いことを良いように言い、過ちを改めず、我々が悪いことを言ったように他国にまでふれたこと。
一、金銀をむさぽり、私用を達するため、他国へ行き、わずかの者にまで商をさせるので、我々の悪名が世上にひろまったこと。
一、一国の諸法度を厳しくし、わずかの事も正し、諸侍に耻をあたえるのに、自分は諸法度を守らず、上方へ上下する時も、引船数十艘を出させ、津々浦々に火をたかせ、我々父子の上下と同然の事を行った。このような非儀無作法は、その数を知らない位であること。
右の条々は、清七は若輩であるので、知らない事とは申しながら、父の科は逃れることはできないので、このように申し付けるのである。
  辰の3月2日                           (伊賀家文書より)

兼山遺子への罪状
兼山遺子への罪状
この申渡しを受けた清七一明は、「父伝右衛門儀、重科の者にて御座候に付、如何様に仰せ付られ候とも御恨み申し奉らず」と答え、家にも帰されず、そのまま弟妹達と用意の船二艘に分乗させられて、高知から海路を通って宿毛へ預けられたのである。
宿毛へ預けられた遺族は次の通りである。
一、清七16才
一、希四郎 8才
一、 4才
一、貞四郎 2才
     右4人の母 池きさ
一、欽六15才
     右の母親 公文かち
一、 7才
一、 3才
     右の母親 美濃部つま
一、よね18才
     右の母親 やな
合せて子供8人、母4人、それに家来の若党6人それに下男3人が宿毛に着いたのである。若党3人は宿毛着後、高知へ帰ったが、他の者達は遺子たちと共に宿毛へ残った。
罪人として預けられたのは、遺子達8名だけであるが、母親たちは、幼い子供たちの世話をするためについて来たのである。
こうして兼山遣族を、一先ず宿毛に預けたのであるが、やがて正式に預けることとした。それには次のような経過と理由があったのである。
藩主忠豊は、はじめこれらの遺子達を、一先ず宿毛の節氏のもとに預けたのであるが、さてそれから先、この遺子達を国外に追放しようか、そのまま節氏に預けておこうかと苦慮したようである。幕府の老中酒井雅楽頭にも、この事を相談しているが、雅楽頭は、預けてもよし、追放でもよし、お前次第だ、と返事をよこしている。
忠豊は、はじめは国外追放を決意していたが、国外に追放してしまって、その行方がわからなくなると、報復の警戒をすることが出来ない。最近松平安房守が上野で食あたりのために死亡したが、これは、左馬の子が毒をもったといううわさがある。このように毒をもられても大変だ。兼山の遺子は大勢居るから、どのような目にあうかもわからない。むしろ扶持を少々つかわして宿毛に置けば、反って心易いのではなかろうか、(皆山集忠豊書状)
このように考えた忠豊は、国外追放を止めて、その遺子達に70人扶持を与え、一先ず預けた宿毛へ、そのまま預けることとしたのであった。
宿毛は高知から30余里も離れており、仮りに遣子達が逆心をいだいても、簡単に高知まで来ることもできない。しかも宿毛山内家(伊賀家)と野中家は親類の関係にあるので、よく監視をするにちがいない。遺子達が謀反を起せば監視不十分の罪で宿毛山内家も罪になる。そのため逆心を抱くこともできないであろう。との考えも大いにあったのではなかろうか。
清七達兄弟姉妹が、宿毛へ流された後の野中家の家財は、武具、馬具、船道具などは、兼山の借銀三百貫目の代償の一部として、城の蔵に納められ、その他の軽道具、雑物は、清七にくれたので、宿毛領主節氏の船で宿毛へ運ぶ途中、佐賀浦の沖で難風にあい、船は破損し、諸道具はすべて流失してしまった。(皆山集)