宿毛市史【近世編-野中兼山と宿毛-兼山遺族の宿毛配流】
兼山遺族への扶持
兼山遺族への扶持は、一万石にかわって、次のようなものであった。
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一、 | 70人扶持 | 上十人扶持下六十人扶持 清七へ之を遣わさる |
一、 | 知行二百石 | 玄蕃後室へ |
一、 | 同 百石 | 同人娘市へ |
是伝右衛門養父玄蕃儀科之無き者に付、右2人へ下さる也 (寛文改替記) |
これを証明する文書が、宿毛の妙栄寺に保存されている。
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御知行所付 |
幡多郡樫井兵太夫上知 |
一、 | 地四拾五石弐斗五升四合 | 山田村 |
| 高百四拾五石九斗九升の内同郡の内丁野帯刀上知 |
一、 | 同三拾八石弐斗七升五合 | 江之村 |
| 合地高百石、内拾六石四斗七升壱合込地不足 |
右者野中玄蕃殿息女へ被遣知行也所付如件 |
| 寛文4年4月12日 | 孕石頼母 | 花押 |
| 安田弥市右衛門 | 花押 |
| 岡田加右衛門 | 花押 |
| 山内下総 | 花押 |
兼山の養母よめ、妻市が宿毛へ移って来ているが、これは遺子達とちがって、罪人としての取扱いはうけなかったのである。
伊賀家系譜に、「よめ可氏長女、慶長13年証人となリ江戸へ立越、玄蕃に嫁す、同18年帰国、寛永16年宿毛へ引越、寛文4年忠豊公より知行二百石有拝領、寛文9年5月21日卒、享年77、法号玄理院涼屋妙幽」とある。兼山は寛永4年に養子となり、養母よめは寛永16年に宿毛に移っているので、兼山とは12年同居したことになる。
兼山の妻市は、兼山とはいとこである。兼山は儒学を学ぴ、同姓めとらず、の教えを知リ、妻と協議して、同棲せず、為にやな、池きさ、公文かち、美濃部つまの4人の側室を置き、それら4人の女から11人の子女が生まれている。そのうち3名は早く死亡し、残った8名が宿毛へ流されたのである。
妻 玄
蕃
よ 直
め 継
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市-兼
山
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貞 将 婉 寛 希 畏 顧 欽 清 米 順
四 四 三 一 六 七
郎 郎 郎 郎 明 一 高 早
行 継 継 明 木 世
継 業 早 早 四
世 世 郎
左
衛
門
妻
母 母 母 母 母 母 母 母 母 母 母
き つ き つ き つ き か き や か
さ ま さ ま さ ま さ ち さ な ち
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市への知行所付 |
兼山養母よめの墓 |