宿毛市史【近世編-野中兼山と宿毛-兼山遺族の宿毛配流】

宿毛の配所

兼山の妻市、その母よめは、罪人ではないので別として、遺子8名、その生母4名、家来の若党下男たちは宿毛の配所で生活したのであるが、その配所、すなわち居た場所はどこであろうか。
母子、家来等合せて18人が生活する家がすぐにあるとも考えられない。しかも、一先ず宿毛の節氏に預けたのであることを考えると、その配所は最初は、伊賀家の邸内の一屋に居たと考えてよいのではなかろうか。かつては同僚の家老の子、しかも血縁の子たちが宿毛へ預けられたのであるから、先ず邸内に預って監視していたと考えたい。小関豊吉氏も、その著『野中兼山』の中で、「宿毛なる安東氏の邸に拘禁せらる」と述べている。
寛文10年(1670)6月11日、遺子達が流されてから6年目、山内節氏及びその子省太郎は、宿毛に帰るため暇乞に登城した。その時、「野中伝右衛門儀不届者に付、傑山侯(忠豊)甚だ御悪く遊ばされ、子供残らず其の方たしかに思し召され、御預けなされ候、定めて此節子供成人致し候間、いよいよ万端の心付申し付けらるべく」と孕石頼母、桐間兵庫より挨拶があった。(『柏葉日記』)そのため宿毛では警備をいよいよ厳重にしたことであろう。
さらにその翌寛文11年(1671)10月16日、4代藩主豊昌が、国内巡視のため宿毛に来た。その時謀反人の子等、いかなる逆心を懐抱するやも計られずと称し、当時幽囚の人なりし彼の諸子の帯刀を奪い、其の牢獄を厳にせしという。(小関豊吉著『野中兼山』)
さらに遺子達の監視を厳しくしたのに、仙台の伊達騒動の主要人、伊達兵部が、山内家へ預けられ、高知へ来たのが関係している。
伊達兵部宗勝は、寛文11年(1671)4月3日に山内家に預けられ、従者7人をつれて5月6日浦戸に上陸し、一先ず下屋敷の配所に着いたのである。
孕石頼母が7月1日、三の丸で山内節氏、山内丹波に言いきかせたのは、「清七達の取り扱いは、今まで緩やかであったようだが、今度伊達兵部殿を幕府から預ったので、預りの条件を種々言ってくるであろう。今後は、兵部の処置にならって、清七への処置を申し付ける」というのであった。(孕石日記)
これらの事から判明することは、清七達が若年の頃は、あまり厳重な監視ではなく、ようやく成人した寛文10年11年頃から、藩主の巡見もあり、さらに伊達兵部の預りが、一つの基準となって、監視が厳しくなったようである。
伊達兵部は、同年12月3日に小高坂村新屋敷の配所の普請が出来上がり、移ったのであるが、その屋敷には堀を巡らせ番所を置くというものであった。
「小高坂にて壱町余新屋敷を構え、四方に堀をほり、四すみに番所を立て」(谷氏年代記)と記されている。
宿毛の清七達もこれにならって、より一層厳重な藍視のもとに置かれるようになったものと思われる。

兼山遺族の配所跡 兼山遺子の配所
兼山遺族の配所跡 兼山遺子の配所
宿茂絵図
昭和50年7月、安芸市土居の家老の家、五藤良政氏宅より宿茂絵図が発見された。この絵図は、1680年頃、すなわち清七が死亡して、2男の欽六が当主となった頃のものであるが、欽六達の配所の様子も詳細に描かれておリ、当時の宿毛の様子を知る上でも極めて貴重な地図である。
その絵図には、「野中金六兄弟共」と記され、そのまわりを板囲いとし、更にその外へ竹矢来を構えて、二重に取囲み、四すみに番所を置き、一軒の御下横目の家まであり、これら番人の家をさらに竹矢来で囲むという、極めて厳重な監視状態が記されている。
しかもその位置は、安ケ市で、現宿毛小学校の敷地の半分以上がその配所となっている。面積の広さ、警備の厳重さも、伊達兵部の場合に、少しも劣らない位である。
その隣の土居式(現宿毛小学校運動場)には栄順院(兼山の妻市)の家もあるが、市は罪人ではなかったので、竹矢来などで囲まれてはいない。遣子達8人はすべて側室の子であり、市とは直接血のつながりはないのであるが、道を一つへだてたすぐ燐リに、遺子達が幽閉されているのを毎日ながめて、どんな気持であったであろう。
やはり土居式の中に、母居申跡屋と記された家がある、この母とは市の母、すなわちよめ(可氏の長女)の居た家ではなかろうか。よめは早く死亡しているので、母居申跡屋と記されたのであろう。

宿茂絵図
宿茂絵図