宿毛市史【近世編-野中兼山と宿毛-兼山遺族の宿毛配流】
遺子達の様子
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兼山一族の墓 |
流された8人の子のうち、米は高木四郎左衛門に嫁して、すでに一女をあげていた。だが罪人の娘だということで、離縁させられて宿毛に流されたのである。当時18才であったが、夫や子供と離別させられた悲しみに加えての流罪、ついにその精神的負担にたえかねてか、3年後の寛文7年(1667)5月に21才で世を去った。墓所は不明である。
長男の清七一明は、16才で流され、配所に居ること16年、延宝7年(1679)6月13日に、31才で死亡した。清七の死亡が高知に知らされると、高知からはその検死のために、小林甚丞が来ており、さらに江戸へも使者を出して、酒井雅楽頭に報じ、板倉市正をしてその同役に知らせている。
(御家中変儀)
清七死亡の翌月、7月1日よりは、遣子への扶持米は、さらに削られた。 |
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覚 |
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未の7月朔日より |
一、 |
上下36人扶持 |
野中欽六兄弟へ |
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内 |
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弐拾1人扶持 |
男子3人分 |
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拾5人扶持 |
女子3人分 |
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右者清七未の6月死去に付末子衆へ右の通配分仰せ付けられ候間、御渡し有るべく候。 以上 |
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延宝七年九月廿七日 |
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孕石 小右衛門 |
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桐間 兵庫 |
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松下彦四郎殿 |
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不破甚右衛門殿 |
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岡田嘉右衛門殿 (改替記) |
延宝7年(1679)の11月22日には、
一、 | 宿毛に於て山内源蔵(節氏)に預置く野中伝右衛門世伜共、見合のため今年より下横目1人1年替に遣し候様に小右衛門、兵庫に之を申し付ける。(『柏葉日記』) |
とあり、清七の死亡後は、さらに高知より下横目(現在の警察官に相当)1人が1年交替で監視に加わったのである。宿茂絵図にはこの下横目の家まで記入されている。
欽六明継は、15才で流されたが、兄の死後は精神に異状を来し、ついに座敷牢に入れられ、配所にあること20年、天和3年(1683)9月2日、34才で狂死した。
希四郎継業は、8才で流され、配所にあること35年、元禄11年(1698)4月17日、42才で死亡した。
この希四郎は、清七、婉、貞四郎と同じ母、池きさの子で、兼山の男子4人の中で、最も才気があり、婉が最も頼りとし信頼していた兄であった。流罪中もよく書を読み、詩を賦し、婉と唱和し、互に慰めあっていた。
当時、兼山の学問を継ぎ、南学の復興者として土佐で名高かった谷秦山に、時々書を寄せて教えも受けていた。秦山は、貞享4年(1687)の夏、わざわざ宿毛を訪れ、面会を求めたのであったが、獄吏はこれを許さず、ついに面会出来ず涙をのんで引き返したのであった。後、高知へ帰り、希四郎に与えた書の一節に
「往年蹉蛇より宿毛に転ずるや、私心是に於て其の初望を遂ぐるの日有らんことを喜ぶ。既にして至る。其の居を訪うに則ち圜牆(獄舎)なり、其の僕を訪へば則ち獄吏なり、乃ち悵然大息、げん然涕を出して曰く、吾其の人と為りを得ること蓋十有7年、而して其の面を一見する能わず、豈命に非るか。」(秦山集、原漢文)
とある。
この書状を受けた希四郎は、この状でどれほどか慰められた事であろう。
末子の貞四郎は2才で流された。2才といっても生後わずか5か月の赤んぼうである。この貞四郎が獄にあること40年、元禄16年(1703)6月29日、41才で死亡し、野中の男系は、ことごとく絶えてしまったのである。
やっと生き残った寛、婉、将の3名は、元禄16年(1703)はじめて自由が許され、獄舎を出ることができたのであった。しかし、3人共すでに40をとっくに越しており、婚期も過ぎ、子供の出来る心配もなかったのである。兼山の血縁を断とうとする計画が、ここに全うされたわけである。
寛と将は、母美濃部つまの墓地のある宿毛に残り、寛は享保14 年(1729)72才で、将は享保6年(1721)60才で共に宿毛で死亡した。
婉は、赦免後高知へ帰リ、朝倉に居て医者となり、父の偉業とその祭リを後世に伝えたのであった。父兼山の墓石を建てたのもこの婉であるが、宿毛にある清七一明の墓石も、この婉が建てている。墓石には次のように記している。
野中清七一明墓
延宝7年6月13日 三十有一
於配所病死、妹婉植之
婉は、宿毛の獄舎で、兄の死を弔らって、
つらなりし梅の立枝枯れゆけばのこる梢の涙なりけり
と胸をうつ歌も詠んでいる。婉は、安履亭と号して詩文にも長し、兼山遺子として令名を後世に残したが、生涯結婚をしなかったので、その子孫はない。
兼山の妻市は、字土居式に居をかまえ、父直継や、夫兼山の冥福を祈るかたわら、恵まれぬ遺子たちをいたわりつつ、元禄12年(1699)、7月9日、80才でなくなった。
市自筆の歌と句が、宿毛の妙栄寺に保管されている。
市自筆の短歌並びに俳句
初冬 風かわす一夜になれし白露の葉末に氷る冬は来にけり
残菊 山ひめのちぎりし菊の名残かも誰が知る野辺の霜にさくらん
残菊 けつまづく菊やはたけの霜ばしら
この短冊の入った箱には、栄順院様御自作の御丹、享和2戌年7月5日と記されている。