宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

沖の島境界争いの発端

沖の島の北部に、大和山という所がある。この山は宇和島領であるが、土佐の柏島の者が木材をきることは昔から許されていた。そのかわりとして、土佐側は長浜、大小島までの魚場を開放し、伊予側の釣漁を許していたのである。このように、ここでも海山共に入相が認められていたのであるが、正保元年(1644)になって、宇和島側が大和山での木材伐採を禁止した。更に正保2年(1645)正月には、伊予領の海へ、柏島の網船は入らないように、と通告して来た。
これに対して柏島では、土佐領の長浜沖の海での漁猟を禁止して対抗した。
正保2年(1645)に、幕府より国の絵図を作れとの命令が各藩に下った。土佐、宇和島両藩でも絵図を作ったのであるが、その時国境についての双方の言い分が違い、国境争いが表面化するようになったのである。