宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

姫島境界争い

宇和島側では、その絵図で、姫島全部を宇和島分とし、更に弘瀬の国境を金合河限り宇和島分とした。土佐側の地図では、姫島はきれとうより南は土佐分、弘瀬は在所の川限りとしたのである。
そして、これらの違いの事について、双方ともに、現地で解決をしようとしたが、各々の主張をくり返すだけで、島では解決の見通しがないため、弘瀬の庄屋三浦助丞と、幡多郡奉行前野弥五兵衛が、証拠の品を持って字和島へ行き、その解決を計ったのである。
正保4年(1647)1月18日、2人は宇和島に着き、21日より協議に入った。宇和島側は、証拠になるものは無いというので、土佐側からは、助丞系図、新助証文、宗見証文を出して、土佐側のいう国境の証拠を示した。
宇和島側は、「姫島沖で土佐が漁をした事実がないではないか。姫島全部が宇和島領である。」と主張し、更に「白岩の網代も字和島領であったが、土佐にとられたのである。」といった。
土佐側は、「姫島のきれとうより南の、はげ、わたり、うどの口、の三網代は土佐分である。白岩の網代も、もともと土佐分で、この網代で先年争いが起った時、双方協議の結果、土佐分に落着しているではないか。」と反論した。
宇和島側の浦奉行は、「土佐側が姫島のきれとうが境であるというのは覚え違いで、突端のきれとが境ではないか。」といいだした。
そして、宇和島側より、正式の返事として、「姫島突端のきれとを境としたい。姫島のはなの漁は、前々のように入相にしたい。」といってきた。
土佐側がこれを承知するはずがない。話合いはついに解決がつかず、2人は24日に宇和島を出発して帰ってきた。
5月28日になって、宇和島領沖の島の庄屋六之進より、「海の境は白岩限りというが、そのようなことは聞いたこともない。しかも土佐側の証文には、川限り見当て姫島きれとうとあり、今また、白岩はなより海は土佐分というのは合点がいかない。」といってきた。
これに対して弘瀬の庄屋助丞は、「姫島境は、弘瀬まくうちはいより西を見当て、姫島きれとう限りが境で、白岩のはなが海の境で、先年より土佐の海に定っているではないか」。と反論した。
沖の島の両庄屋が、このように争ったのであるが、互にその主張をくり返すだけで、らちがあかない。ついに、宇和島の役人より、姫島の境の様子を聞きたいということになり、土佐側は再度前野弥五兵衛と、庄屋助丞を宇和島に出張させた。
2人は、正保4年(1647)9月16日に、宍戸弥左衛門の所へ行き、弥左衛門、古谷九大夫、鈴木次大夫、桧垣助三郎、梶田権兵衛に、宗見証文、新助証文、などの証文を出して説明した。
宇和島側は、姫島の境は、はなのきれとにしようといいだした、きれとというのは、姫島の突端で、山の切れた所だというのである。
一方土佐のいうきれとうというのは、山のくぼんだ所をいうのであり、きれとうときれとが問題になったのである。
「土佐の書状に、度々きれととあるので、境は姫島の突端だ」というのが宇和島側の言い分である。これに対して土佐側は、「きれとときれとうはおなじ所である。今まで土地の人々が言いやすいように、きれとと書きもしたが、証文にいうきれとうのことで姫島の山のくぽんだ所である。姫島のはなは、日向ばなという所で、その次の小島は山太郎ばえというのである。かりにきれとという所があっても、ここを境として岩1つ2つを土州分として入れ置く事があるであろうか。かりに証文にきれととあっても、山のきれとうの事である。」と反論した。
その夜、弥左衛門、九大夫の使が宿に来て、左京様が、姫島の境は、はなのきれとに決める、といわれたと通知してきた。
助丞たちは、「はじめは姫島全部が予州分といい、この度は、こちらの証文を見て、はなの切戸きれとを境というのはおかしい。証文の通り、きれとうを境としてほしい。」と返事をした。
翌17日、左京様より、「土佐の証文の通り、きれとうを境とする。但し、はなの3つの網代、はげ、わたり、うどの口は、今まで通り漁をさせるから。」といってきた。
土佐側は、「はなの網代も、当然土佐の網代である。どうしてもほしいというのであれば入相にしてはどうか。予州よりは近く、土佐よりは遠いので、実際には予州が大部分漁が出来るのではないか。」と返事をした。
翌18日には、左京様に御目見えした。左京様は、「土佐より申される通りに境を決めたいが、網代は今までの例により、予州分としたいので、そのむね土州の奉行衆へ頼んでほしい。」とのことであった。
9月27日、土州の仕置衆より、宇和島の仕置衆へ、「姫島はきれとう境に決ったが、海は入相にしてはどうか。」と正式に提案した。
慶安元年(1648)4月18日、助丞は死亡し、その弟源五郎が弘瀬の庄屋となった。
宇和島側からは、再度姫島網代の事について申し入れもあったが、宇和島藩の内藤外記、朝比奈左近たちの調停により、慶安2年(1649)11月17日、網代そのもの土佐のものであるが、伊子側でいくら漁をしてもよい。ということでこの問題は解決した。なお、この時に、弘瀬の境も土佐側のいう通り、川限りということに落着した。
一旦解決したこの姫島境界問題も、後年六之進よりの幕府への訴えにより、再度問題化するのである。
前野弥五兵衛の覚書 姫島 姫島の国境争い
前野弥五兵衛の覚書 姫島 姫島の国境争い
姫島山太郎ばえ 姫島きれとう 兼山書状(伊達家蔵)
姫島山太郎ばえ 姫島きれとう 兼山書状(伊達家蔵)