宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

山中の境界争い

承応3年(1654)7月、土佐の山番、弘瀬の三右衛門が、尻なし尾の境の道を通っていると通行を禁止された。その理由を聞いてみると、土佐側が新道をつけ、それを通っていたので止めたのであるという。ここで、伊予側のいう新道が、伊予領か土佐領かとの争いが起ったのである。
12月5日には、宇和島より、前野弥五兵衛に書状が来た、それには「土佐側の百姓が弘瀬の上より宇和領の山中に踏み込み、数十町の間、竹や木を伐り払い、中尾山のすそ、あしの田の上まで新道をつけ、更に古来よりの境目の道より新道へ枝道をつけた。」というのである。

このようにして、島の各所で争いが起り、字和島領の庄屋土居六之進は、宇和島藩主遠江守様へ申し出るため、明暦元年(1655)11月7日、島を出発して江戸に向った。

山上よりあしの浜を望む あしの浜
山上よりあしの浜を望む あしの浜