宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

六之進目安を幕府に提出

翌年暦2年(1656)2月8日、六之進は目安(訴状)を幕府に提出した。
   予国宇和島伊達遠江守領沖之島庄屋六之進謹而言上
と題して土佐よりの狼籍、不法の数々を訴えたのであるが、その内容は次の通りである。
一、土佐伊予両国の境目に沖の島という所があります。この島の内、毛島(母島)、小屋ノ浦、窪浦の3つの浦は字和領で、弘瀬という浦は伊予土佐両国にまたがっている所です。この島の古来よりの境は、北の海辺は、芦びしゃごの岡おりのりという岩が境で、それより尻なし尾という山を登り、峰を境として、境目の古道を通って、えぼし取り、桃の木のとう、寺屋敷、木落の本、どうめん、仏のとう、鍬抜のとう、という所より西へ下り弘瀬の在所の郡合川が境で、これより沖にある姫島は、南のはなのきれとより沖へ1里あまり瀬がつづいており、その瀬のはずれが沖の海境で、昔から、宇和領より漁をしていました。弘瀬の境目の川より北の伊予分の弘瀬に、いわし網の網代があり、村君と百姓が住居していましたが、村君が死亡したので網を引き上げ、百姓は小屋の浦へ移転し、あき地になった時、長宗我部殿が、宇和島領主戸田民部少輔殿へ所望して、伊予領の弘瀬を土佐へ貸すことになり、その印に毎年三百文ずつ今にこちらに納めて、土佐の百姓が住居しています。
 
一、正保2年、幕府に納める絵図面を作成した時、弘瀬の庄屋与惣右衛門、新右衛門にことわって、弘瀬の境を絵図に書いたのですが、正保3年の秋より、弘瀬の庄屋助丞は、境目の郡合川を越え、この方より貸している地の内の大川を境といい、更に姫島の境は、はじめはきれと境といい、その後には島の山中に境を立てて理不尽を申しかけていましたが、遠江守の申し付けで、百姓共の仕事に別に差し支えのない所ですので、土佐の望の通りに山中に境を立て、魚猟の事は古来より伊予の網代であるのでこちらから漁をすると申され、今まで通りに漁場は支配することにし、その上内藤外記、朝比奈左近様の取り扱いで、重ねて右の通りに確定されました。
 
一、承応2年(1653)11月、弘瀬の庄屋源五郎が、大勢で山の境を伐り、宇和島領へはるかに入り、中尾という山の畝通りから、芦の田の上まで数十町の間竹や木を伐り、新道をつけたので抗議をしたところ、これは昔からの境目道だといい、12月には古来の境目筋と新道との間に枝道を4か所もつけています。これについて宇和島より土左守様に申し入れました所、対馬守様御在国でその事を聞かれ、吟味の上新道という事になり、今後この新道は通らないようにするからとの返事がありました。この件は、これで落着と思っていました所、土佐の者達はこれを承知せず、庄屋源五郎はその新道へ出て、伊予の者が山仕事をしておればそれを取り上げ、今だに数人の者がその新道を通っています。
 
一、弘瀬の者たちがわがままな事をするので、このままでおれば棒で打ち合いなどが起り、又論争が起るので、新道と古道の間は当分双方とも禁足にしてはと、申し入れたところ、源五郎は一旦これに賛成し、再度よく話しあうことにしていましたが、その時になってこの禁足を破り、なおさら狼籍をし伊予の者が境目の道を通ると途中に大勢番人を置いて打擲し、その上、境の道をきりつぶし、宇和領へ入って畑を開き、山中の大木や小木をことごとく伐り取り、あるいは伐り捨てています。
 
一、正保4年(1647)の夏から、弘瀬の境目からはるか24、5町も宇和領へ越えた白岩という所が海境であると偽りをいい、伊予よりの漁をさまたげ、その上釣道具まで押え取っています。
 
一、慶安3年(1650)の春、境目尻なし尾の山中へ、土佐の柏島の者が火をつけ、宇和領の芦の山中までことごとく焼いてしまいましたので、抗議をしますと、弘瀬庄屋源五郎は山も谷間の田畑もすべて土佐領であるといい、田畑の作物を踏み荒しました。この芦の田は母島の善福寺の領田で、古来よりこの寺が作って来たものであります。
 
一、同3年(1650)の冬より芦の浜網代まで土佐領といいかけ、磯漁をすると海草や道具まで押さえ取っています。この網代は、昔から久保浦の者数十人が持っているものです。
 
一、寛永20年(1643)の春、琉球の船が、びしゃご芦おりのりに流れ寄った時、宇和島へ注進し、薩摩までこれを送りました。
以上の事について、源五郎を呼び出して調査をした上で、よろしく結末をつけて下さい。と、沖の島庄屋六之進、同所百姓の名で、明暦2年2月8日に幕府の奉行所に訴え出たのである。

六之進訴状 沖の島の国境 御境目由来書 両藩のいう沖の島国境
六之進訴状 沖の島の国境 御境目由来書 両藩のいう沖の島国境