宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

源五郎達の活躍

土佐側でも兼山の家来衣斐金左衛門、幡多郡奉行前野弥五兵衛、弘瀬庄屋源五郎たちが江戸へ向った。
2月21日、3人は忠義様へ拝謁し、島の地図、地検帳、証文を見せた。忠義様は細かい事を聞いてないので、多少の心配もあったようだが、これだけの証拠があれば、公事(訴訟)になっても負けるはずはないと安心した。そして、近日隠州様(松山藩主)が松平出雲守、曾根源左衛門殿を呼んで様子を聞かれるので、その人たちにこれらの帳、証文をお目にかけるがよい、といわれた。忠義の妻は松山の前藩主松平定勝の娘である関係で、松山藩主松平隠岐守定行は土佐藩には極めて好意的で種々の世話をしてくれたのである。
2月25日には弥五兵衛、金左衛門、源五郎並びに島の者などは松平隠州様の屋敷へ行き、同席していた出雲守、源左衛門に、地検帳、証文を見せ、伊予側より理不尽なことを仕掛けたことを説明した。隠州様は、「このようなことが公事(訴訟)になっては、良いことはないと思われるので、ないしょに事をすませたい。土佐側には、このように証拠があるが、宇和島側にも証拠があればとりよせ、よく御覧の上、双方を見合いないしょに事をすますよう御世話願いたい。」と出雲守、源左衛門に頼まれた。
3月7日、源五郎たちは石谷将監、松平出雲守、両人に呼び出されて説明をした。この時には宇和島側からも侍2人、庁屋1人が来ており、先に宇和島側の意見を聞かれ、そのあとで土佐側の意見を聞かれた。源五郎達は、宇和島側が新道といっているのは、宇和領ではあるが請銭を出して土佐が支配している地である。白岩内は昔から土佐領で、藤堂和泉守の代に争いがあったがすでに解決している。弘瀬の部落も境は川わけですますことになっており、姫島も切峠きれとう限りで済んでいたのに助丞が死亡し、源五郎が若輩のためか、これらの問題をまた新しく持ち出したのであると説明した。
3月8日には隠州様屋敷へ行き国境問題をどのように解決したらよいかを相談した。隠州様は、お前たちはどうしたらよいと思うかと反対に問われたので、源五郎達は、国境が帳や証文と少しでも違うことは許されない。境目は帳、証文の通りとして、海山は入相にしては、と答えると、隠州様もこれに同意した。
3月10日には3人は忠義様に会い、境は帳、証文の通りとして、海山は入相にすることの了承を受けた。野中兼山はこのことには勿論賛成であった。