宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

返答書の提出

伊予側の目安(訴状)に役人、奉行たちが裏判を押し、庄屋源五郎に返答書を作って対決せよとの命が下ったのは、8月12日の事である。
       目安書の裏書に
如此目安差上候間返答書仕罷出可令対決者也
 申8月12日  次左衛門
  源左衛門  
  蔵人  
  将監  
  備前  
  出雲  
  右京  
               弘瀬庄屋源五郎

このような命を受けた土佐側では早速返答書を作成して8月18日に幕府に提出した。
   乍恐返答書を以申上候
という書出しで、字和島側の目安を1か条ずつ徹底的に反駁したのである。その内容は次の通りである。
一、沖の島の土佐、伊予両国の境について、宇和島領の庄屋六之進のいうことはすべて偽りでありますので、宇和島側には証拠はないはずです。こちらのいう境は、長宗我部地検帳、新助、宗見証文とすべて証拠があります。中でも弘瀬川わけの境を、金合川境といったり郡合川境といったり、北の境芦おりのり境を違えて「芦みさごはえおりのり境」といい、さらに「芦みさごの岡のおりのりのはえ」というように度々境目の名を違えていますが、これは六之進が土佐領に入って新しく境を立てた証拠と思われます。請銭屋敷は、戸田民部少殿御代に始ったというが、これも偽りです。宗見は先代の者で、戸田民部少殿の御代まで居た人です。その宗見証文に「川わけ予州分屋敷先年より請銭二百文也又川むかい予州分屋敷先年は三屋敷也、又白岩より小島迄の間予州分の網先年よりよせつけず候、但宗見代の時は小屋の浦弘瀬浦1人にて持候故いずれの網代も同前に仕候也」とあります。宗見証文に請銭先代より始まるとあるので、民部少御代に請銭が始ったというのは偽りであります。予州の者は請銭屋敷に居ないので、白岩前の網代も予州分ではないはずです。白岩前の網代は昔より土州領で、証文にものっており、民部少殿と長宗我部殿が相談せられたのは、山の事であります。この山の礼にはじめは酒樽をつかわしていましたが、いつしかこれが百文となり、屋敷の請銭二百文と合わせて三百文となったのであり、六之進が屋敷の請銭三百文というのは偽りであります。山を借り、土佐で支配するようになってからもすでに70年になっています。
 
一、正保2年、絵図の作成を命ぜられた時、土佐領庄屋2人にことわって絵図を作ったというが、これも偽りであります。弘瀬の内に郡合川と大川と2筋あるというが、川は1筋だけで、郡合川というのは聞いた事もありません。
 
一、先年、弘瀬は川限、姫島はきれとう限りで境をすませたと、六之進がいいますが、それは、こちらの証文の通りにすませたのであります。宇和島方は、土佐分の網代を伊予領にしてくれといったが、国境の決定した所の網代を他国へ渡すことはできないといって渡さなかったのです。漁場は宇和領に決めたというのは偽りであります。内藤外記、朝比奈左近様の書状、土左守の返事は、六之進のいうのと違っています。
 
一、源五郎は山の境を越え、芦の田の上まで新道をつけたといいますが、これも偽りであります。芦の田が争いになってから、六之進は境の川を切り埋め、土佐領の田畑を作り、狼籍をしますので、毎日山番を置きました。毎日の事ですので、仏の岡の境道を通るよりも在所の細道の方が都合がよいのでこれを通り、その道にさしかかった小木小竹を少し伐り、或は通りにくい所を広げただけでありますが、これを新道をつけたといって来ているのであり、こちらからは新道をつけていません。しかし、こちらの奉行が吟味しました時、私共は、仏の岡の道より西は宇和領ではあるが、大こやが谷まで土佐へ借りて、すでに70年支配して来ており、字和領の者は入って来ない在所道である。これを宇和領よりとやかくいうわけはない、といったのですが、奉行達は、たとえ支配の山であっても、この争いがすまないうちは他領の山畑は作らない方がよい。道にさしかかっている小木小竹を切ることは不届である。新道をつけたといわれても仕方がないので、不便ではあるが今後通らないようにせよ。と申し付けられましたので、通らないようにしたのですが、この事をよい事にして、古来の大道をも新道といっているのであります。土屋忠兵衛様より対馬守様へ申し上げた時、数十町新道をつけたと申されたといいますが、これも全く偽りであります。
 
一、土佐の者たちがわがままをしたといいますが、これも偽りであります。土佐領芦の田を宇和領だといって六之進がわがままをいうので、この争いがすまないうちは、この田へは双方より入らないようにしようと、こちらの奉行人より度々申し入れをしましたが、その時は承知せず、其後承応2年にこの争いの田をはるかに越えて、宇和領より新道をつけ、境目と新道との間を禁足にするといって来ていますが、あまりにも非道であるので合点出来ません。
 
一、白岩内の海を宇和領であると六之進はいいますが、これも偽りです。これが土佐領であることは、はじめに申した通りで、証文もあります。
 
一、芦の山で柏島の者が火を落し、宇和領の山を焼いたと六之進がいいますので、源五郎が見届けに行きました所、焼けた山は土佐の山であり、そのついでに芦の田を久保浦の者が作っているのを見つけ、争いの田になったのであります。これは、境目おりのりの吟味が済めぱ当然明瞭になる所です。
 
一、芦の網代のことも、おりのりの境がはっきりすればすむ所です。
 
一、琉球の船のことは、土佐へは来ていませんので関係ありません。
沖の島の境は、要の通りに仰せ付け下されぱ数か条は済むと思われますので、古来の証文を島形に引き合わせて一々吟味を御願いいたします。
      明暦2年8月18日      沖之島弘瀬浦庄屋   源五郎
       同所            百 姓
    御奉行所様

 こうして双方の意見はすべての点でで対立してしまったのである。表面は宇和島藩の庄屋と土佐藩の庄屋の百姓公事であるが、両藩とも藩の面子をかけて仕置衆が陣頭指揮をとり、その対策にあたったのである土佐藩の指揮を仕置の野中兼山がとったのはいうまでもない。土佐藩では親類になる松平隠岐守や忠義と親しい間柄の久世大和守、老中の酒井雅楽頭のお世話になり、宇和島藩では社寺奉行の井上河内守、老中の松平伊豆守を味方にひき入れ、こうして幕府の要人を2分して大評定が度々行われるようになっていくのである。

源五郎の返答書 宗見証文の一部
源五郎の返答書 宗見証文の一部