宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】
島形の製作
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起請文(沖の島地堺論) |
起請文 |
双方の主蓬完全に対立しているが、図面もまた違っていた。幕府としてもこれには困ったにちがいない。双方で相談して1つの図にして提出せよとの命令が、明暦2年(1656 )11月に評定所より下った。
六之進は伊予の図面をもとにしたいといい源五郎は土佐の図面で行ないたいという。ここでも対立し何ともならないので、両藩の郡奉行たちが神前に誓って何とか1つの図にしようということになり、双方とも沖の島に向って出発することとなった。宇和島側は12月18、9日には江戸を出発することとし、土佐側も源五郎、二郎右衛門たちが与兵衛の病気がなおり次第江戸を出発することにした。
翌明暦3年(1657)7月18日、幡多郡奉行前野弥五兵衛は過労のため、江戸で死亡した。
やがて双方が沖の島に到着し、神前で起請文を書き誓約した。
その内容は、少しも偽りを言わず正しい山形を作ること、口論を一切しないこと、双方より申し合わせた役人以外は出さないことの3か条で、これに違反した者は神罰を蒙る、として、全員が血判を押すという実にものものしいものである。参考までに全文を出してみると、
起請文前書之事
一、 | 今度在所へ帰られ双方出合沖の島形壱枚に仕立申刻、所の道筋山の高下峰谷水落方角尤境目論所岩婆に至るまで、少も偽申さず有躰に山形仕立申すべき事 |
一、 | 島形仕立申に付、双方出合の節所々に於て互に我がままなる儀申さず、口論一切仕間敷事 |
一、 | 島形仕立申に付役人双方申合候人数の外壱人も出し申まじく候事 |
右条々一事たりと雖違犯致に於ては
| 梵天帝釈四大天王惣日本国中六十余州大小神祗殊伊豆箱根両所権現三島大明神八幡大菩薩天満大自在天神部類春属神罰冥罰各罷り蒙るべき者也、仍て起請文件の如し |
明暦3年9月5日 |
伊予沖の島庄屋 |
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土居六之進 |
書半 |
長谷川源七 |
血判 |
母島 |
沢近右兵衛 |
血半 |
福住半左衛門 |
同 |
小矢浦 |
八兵衛 |
同 |
真谷甚左衛門 |
同 |
窪浦 |
千右衛門 |
同 |
吉右衛門 |
同 |
外海庄屋三浦介大夫 |
同 |
与惣衛門 |
同 |
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井沖彦之進 |
同 |
外海村君藤兵衛 |
同 |
小矢浦 |
五郎左衛門 |
同 |
同じ 分蔵 |
同 |
母島 |
彦 市 |
同 |
弥次衛門 |
同 |
くぼ浦 |
惣 吉 |
同 |
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同浦 |
万五郎 |
同 |
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喜兵衛 |
同 |
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利兵衛 |
同 |
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長左衛門 |
同 |
この起請文を母島の神杜の神前で書き、血判をおして誓ったのであったが、これの検分に弘瀬の庄屋源五郎が当っている。
宇和島藩の役人達も同様に起請文を出している。
起請文前書の事
一、 | 今度沖の島に於て収方百姓出合、島形壱枚に仕立申に付、仕置の為奉行人並役人の外其場へ出し申間敷事 |
一、 | 双方出逢島形仕立申刻、下々邪成儀申候はば互に急度申付偽これ無き様に有躰に致させ申す可き事 |
一、 | 右の島形仕立申候に付相談の刻当人の外差出口々に申させまじき事 |
右之条々一事たりと雖も違犯致すに於ては、…(罰文右同)
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明暦3年9月5日 |
槍垣 介三郎 |
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山内 久右衛門 |
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望月八郎左衛門 |
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松本 源五兵衛 |
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清家 兵左衛門 |
この誓紙を母島の神前でしたのであるが、その書いている筆もと、捺印の検分には、土佐側の役人安積二郎作が当っている。
一方土佐側に於ても、同日弘瀬の荒倉神社の神前で誓紙を書いたのであるが、その前書及ぴ罰文は伊予側のものと全く同じである。その時の土佐側の署名者は、
庄屋 |
三浦 源五郎 |
小間目 |
三浦 藤右衛門 |
地下百姓 |
甚兵衛 |
同じ |
与兵衛 |
柏島 |
庄左衛門 |
地下百姓 |
新右衛門 |
同 |
善兵衛 |
同 |
三郎右衛門 |
手明5人 |
中村弥五右衛門 |
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岩田 七右衛門 |
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柳瀬 兵右衛門 |
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江口 市左衛門 |
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下代 市右衛門 |
竿打 |
地下百姓 儀大夫 |
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同 四郎右衛門 |
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同 万五郎 |
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同 十兵衛 |
帳付3人 |
北原市右衛門 |
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小島甚右衛門 |
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下村作右衛門 |
絵書2人 |
千屋 半兵衛 |
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村上 専助 |
町間見 |
治久吉右衛門 |
大工4人 |
武 兵 衛 |
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権右衛門 |
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郷左衛門 |
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善右衛門 |
この誓紙の検分に伊子側から庄屋六之進が来ている。
土佐側の役人も誓紙を出しているが、その人名は
(藩士) |
衣斐金左衛門 |
(浦奉行) |
西山七郎右衛門 |
(御免奉行) |
片岡武右衛門 |
(山奉行) |
手島 喜六 |
(山奉行) |
安積二郎作 |
(浦奉行) |
淡輪四郎兵衛 |
この誓紙の検分には伊予の役人山内久右衛門が来ている。
『宇和旧記』によればこの時に土佐側では役人多数の中で誓紙を書いたのであがったとみえて牛王(起請文を書く用紙)を6枚も書きそこない、7枚目に又もや神罰冥罰の冥の字を明の字に書きちがえた。検分に来ていた六之進は、もはや牛王の用意もないようなのでそのまま血判して下さいといったのでいよいよ赤面した。なお伊予側は牛王1枚で首尾よくすんだとある。
11月15日には野中兼山も自ら沖の島に来て、翌16日には争いとなっている地点を巡視して指導にあたった。
万治元年(1658)9月には木で作った沖の島形が完成したが、その木形への記入について六之進が異議をとなえて、ついに解決せず、11日にはそのまま六之進は江戸へ向って出発した。仕方なく源五郎たち土佐側の者も江戸へ向った。この事の報告を受けた兼山は、引き返して島形を1つにせよと衣斐たちをしかりつけた一幕もあった。
源五郎は途中で病気をした為もあって、江戸到着がおくれ、やっと11月21日に江戸に到着した。直ちに源五郎は六之進に書状を送り島形への書き付を共に行ないたいといったが六之進は聞き入れてくれず、とうとう書き付不一致のまま双方より木形を出すこととなった。