宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】
評定所での様子
閏12月6日、評定所で総寄合があり、ここで双方の意見を聞くこととなり、関係者が出廷した。
土佐側よりは、源五郎が病気のため、その代わりとして市右衛門を出した。その他沖の島の者は、甚兵衛、与兵衛、少右衛門、少大夫、七郎右衛門、役人では入交勘右衛門、浜田仁右衛門、宮田武左衛門、下田市左衛門を、高島孫右衛門と衣斐金左衛門が引きつれて出廷したのである。
やがて伊予、土佐双方より木形を提出、その木形について先に六之進が説明した。次で源五郎の代理として出席した市右衛門が『新助証文』、『宗見証文』、『地検帳』を出して六之進のいうことをすべて反駁し、六之進は偽りばかりいうといって極めつけた。
さて、この市右衛門であるが、本当は兼山の家来でれっきとした侍である。源五郎では六之進の相手は出来ないと見た兼山が、源五郎の病気をよいことに、前々より沖の島の地下人に仕立てて用意をしていた市右衛門を、源五郎の代りに出させたのである。
このことについては、この評定所での対決のあと、すなわち閏12月10日、兼山は忠義に次のように市右衛門のことを報告している。
「内々申上候通、源五郎儀は煩、今に能も御座無候故、前々より地下人に仕置候付家来市右衛門に帳証文もたせその他地下人共も従出候」
兼山が腹臣の部下を島の百姓に仕立て、訴訟の稽古をみっちりさせただけあって、市右衛門の活躍ぶりは、まことに目を見はるものがある。さすがの六之進も太刀打できず、一言もよう声を発せなくなった事も度々あり、あげくのはてには六之進は、市右衛門は地下人(土地の人間)ではない奉公人(侍のこと)であると異議を申したてて市右衛門を忌避している。
この評定所での審理の様子は、沖の島地堺論に詳しく記されているが、その内容を整理して一部をあげてみる。
伊豆守(老中) | 六之進は先程、芦の田は寺領田といったが、それに間違いないか。 |
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六之進 | その通りです。母島の善福寺の寺領田です。 |
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市右衛門 | 偽りです。これは土佐領の天地浦宮内左衛門が居屋敷に開き、2、3年住居していましたが、波風があらく、屋敷として悪く、そのうえ船を引き上げる場所もないので、又天地浦へ帰りました。そのあとを善福寺が作りたいといっていましたが、弘瀬の介左衛門がやめさせ、土佐領谷尻の彦右衛門が作っていましたが、寛永19年に死亡しましたので、親六之進に3か年作らせました。姫島の境問題が起り、作ることを断りましたが、意趣を含んだのか、その後4か年この田を作り、そのうえこの田は予州領だといいだしたのです。予州領の証拠はないはずです。 |
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六之進 | 証拠はあります。 |
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伊豆守 | 証拠があれば出してみよ。 |
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六之進 | 前野弥五兵衛(幡多郡奉行)書状に、「芦の田は天地浦宮内左衛門屋敷にひらき、其の後母島の善福寺田作り候を助左衛門三浦太郎兵衛を使に立て、やめさせ候」とあります。 |
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伊豆守 | この状は、土佐に有利な証拠ではないか。 |
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六之進 | 土佐より作っているとは書いていません。予州の者が作ったと書いているの予州領です。 |
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伊豆守 | 作るのは子州の者が作ったが、国は土佐の国ととれるではないか。この状で予州領になるのであれば、其の方が裁判をしてみよ。それが予州領になる証拠か。 |
六之進は閉口して一言も発せず、一同の者も、我が身に悪しき状を出したものだと大笑いをしている。ここで六之進は一転して、市右衛門を攻撃している。
六之進 | この市右衛門は土左守様の奉公人であり、地下人ではありません。それで島の様子を知らない人です。知らない事を申しているのです。 |
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市右衛門 | 私は奉公人(山内家の家来)ではありません。沖の島で生まれ、親は木工右衛門です。7つ8つの頃に佐賀に行き、そこで育ち、12、3に又沖の島へもどり、助丞についておりました。助丞死亡後は、源五郎の下使いをしています。奉公人ではありません。 |
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備前守(町奉行) | いらないことをいうな。 |
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出雲守 | 源五郎が病気で、そのために市右衛門が代りに出たのである。相手がなければ裁判はできないではないか。 |
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六之進 | (一言も発せず) |
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出雲守 | 船着きによい岩はどれか。 |
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市右衛門 | おりのりです。証文にあるおりのりがこれで、他へは船がつかない時でも、この岩へは舟がつけれることが出来ます。六之進がおりのりと申す岩へは、舟をつけることはできません。 |
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伊豆守 | まくうちはえより姫島切とうへの海筋が海上の境ではないか。 |
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市右衛門 | 証文にいう「まくうちはえより姫島切とうを見当てがい」というのは、姫島へは参らずに、まくうちはへに立って姫島の境を説明したのであり、海境をいったのではありません。海境は、白岩ほうさすばえより姫島下ばえ限りが境です。『示見証文』にも「白岩内へは予州の網先年より入らず候但宗見代の時は小屋の浦と申す予州分又土佐弘瀬と1人にて持候故いずれの網も同前に仕候」とあり、宗見のせがれ介左衛門の代より、又先規の如く、予州の網、終に入れ申さずというのです。六之進は正保4年にはじめて源五郎が入ったといいますが、これら先規の書物を持ち、所を守っている者がどうして正保4年にはじめて入る必要がありましようか。六之進に白岩の海が予州分という証挺があれば、どうか出させて下さい。 |
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出雲寺、 備前守 | この論はよくわかったのでこれで止めよ。 |
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市右衛門 | 請銭屋敷のこと、民部少殿御代よりはじまると、六之進がいっていますが、これも偽りです。『宗見証文』に「子州分屋敷先年より請銭弐百文也」とありますが、この宗見は、民部少殿より先代の者、民部少殿御代まで居た者の書物に「先年より請銭弐百文」とあるのに、どうして三百文出す必要がありましょう。百文は山の請銭です。これを請銭屋敷三百文とは、屋敷だけにして、山をとりかえす為のはかりごとと思われます。予州の者は、昔からここに居た事はありません。 |
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伊豆守 | 土州分にも山はあるのに、なぜ予州分で木を伐る必要があるのか。 |
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市右衛門 | 川よりこちらの者は、こちらの山の木を伐り、川より向うの者は向うの木を伐るのです。民部少殿と長宗我部殿とは仲がよかったので、大こやが谷まで土佐で支配するようになったのです。 |
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六之進 | いや、みこが谷限りです。 |
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市右衛門 | 六之進は、はやそのようなうそをいう、大こやが谷限り請領境です。 |
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六之進 | ある時はかちがくぽと申し、又みこが谷とも申し、大こやが谷とも申してきました。 |
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市右衛門 | 大こやが谷が請領境である。偽りをいうものではない。 |
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伊豆守 | 山と屋敷の領収書はあるか。 |
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六之進 | (地子銭三百文という状を出し)私が三百文というのはこれです。 |
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市右衛門 | 山と屋敷を書き分ければよかったものを、沖の島の者は私のように猿同然の者ですので、このようなことをしたと思います。 |
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伊豆守 | お前のような利口な猿は、他にはいないだろう、四国の猿は利口だというが。 |
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ここで一同は大笑いをしている。大名たちの裁判にはなにかゆとりのあるものが感じられる。
この日の裁判では更に白岩の網代、姫島の問題、山中の新道の問題も論じられたが、各場面で市右衛門は大活躍し、六之進を閉口させてしまっている。
やがて年が明け、万治2年(1659)となっても、対決は度々行われた。3月4日にも、14日にも評定所で寄合があった。
14日の寄合でも六之進は市右衛門をきらい、源五郎を出さなければ、六之進は出ないといいだした。ついに源五郎は、杖にすがっても出てこいということになり、22日の寄合に源五郎は出ることになった。
3月22日の惣寄合には次の人々が出席した。伊豆守、豊後守、美濃守、河内守、板倉阿波、出雲、備前、次左衛門、蔵人、源左衛門、下総
市右衛門 | 源丘郎は病気です。しかし、連れてこいといわれるので門まで連れて参りました。 |
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役人たち | あの身体の様子ではものをいうこともできないだろう。脇へおけ。 (源五郎を脇へよせる) |
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六之進 | 市右衛門は対鳥守(土佐藩主)の奉公人で沖の島の境は知らない人です。 |
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市右衛門 | 私は奉分人ではありません。 |
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六之進 | 奉公人の証拠を出します。(と書物を出そうとした) |
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奉行 | 公事の外に別の公事が出来た。1つの公事がすんでからにするがよい。 |
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六之進 | (島形により境を一通り説明する) |
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市右衛門 | (境を説明する) |
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河内守 | 土州より出した証文の内地検帳は証拠として立てるが、地下人の書は立てないと皆がいうので、そう心得よ。 |
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市右衛門 | 地検帳と地下人の証文は、境の説明は全く同じです。どうして地下人の証文は立てないのですか。白岩内か予州分となれば弘瀬の生活はなりたちませ人。70年に及ぶ予州の者よせず、というのはどうなりますか。 |
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伊豆守 | 一先づ下りおれ。(両藩の者全員を退席させ、やがて市右衛門だけを呼び出し) |
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備前 | 請領のことを申してみよ。 |
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市右衛門 | (請領屋敷、山のことを説明する) |
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伊豆守 | 其方帳に芦の峰を限るとあり、峰続きにみえる。六之進のいう尻なし尾おりのりの赤筋が古来よりの境ではないか。 |
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市右衛門 | そうではありません。芦の峰を限るとあるのは、この芦の峰より東は土佐分ということです。浜はおりのりを限るとあり、新助証文におりのり川わけ尻なし尾とあります。 |
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河内守 | 川わけ尻なし尾は地検帳にもあるか。 |
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市右衛門 | 新助証文にあります。 |
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河内守 | 地下人の書物は立てない。(証拠としない) |
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市右衛門 | この書物は地検帳の筋とかわりません。芦の峰より存のりへ境を引けば皆にまちがいありません。 |
双方の百姓を帰し覆で相談、地下人の証文は立てず、請領山、屋敷を予州へ返すよう、伊豆、豊後、美濃の3人の老中と河内守が合意、他の人々は無理と思いながらも黙っていたところ、蔵人1人が、
蔵人 | 今までの公事は、地下人の証文をもってすませました。この度地下人の証文を立てないとなったならぱ、今後はどうなりますか。大部分の公事が地下人の証文のみですが、これもすべて立てないとなるとどうなりますか、請銭山を予州へ返すのも合点がいきません。大猷院様御大法に20年支配したならば、他領であっても支配した方につける。とありますが、この所は70年の支配です。大法を破ることになります。 |
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備前、出雲 | もっともである。 |
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伊豆守 | 20年の大法も事による。(とて聞き入れない) |
請銭山、屋敷を州へ返すのを無理と考えた人々は、別座で談合、板倉阿波もその組に入る。予州へ返すこと合点まいらず、せめて入相にでもと相談したが、伊豆守たちは、それさえ聞き入れてくれなかった。
評定所内での様子が、土佐側に厚意をよせる奉行や記録の役人たちから知らされ、各奉行人の言動は、手にとるようにわかっていた。地下人の証文は立てず、請銭山、屋敷を予州へ返すような重大な局面をむかえるに至って、野中兼山は早速陣頭に立って各奉行たちの宅を訪問し、最後の活躍をはじめたのである。
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国境あしのおりのり |
弘瀬浦地検帳 |