宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

城中での評判

5日にも評定が行われたが、兼山の運動が効を奏したのか、土佐側に味方の役人たちは、この日大活躍をしている。
5日の評定所への出席者は、出雲、備前、次左衛門、蔵人、源左衛門、大和、北条安房、下総、阿波、河内、美濃、豊後、伊豆、雅楽頭であった。その時の様子を記してみると、

出雲守地下人の証文を立てるべきである。20年の大法も立てるべきである。(備前、源左衛門、蔵人、阿波、大和、北条、下総、雅楽頭同意)
備前予州の者、あまりににくいので、少し牢に入れてはどうか。
伊豆守そうであれば土佐の百姓も入れたらよい、白岩ほうさすばえは海境でないのに、この所を横領しているから。
北条安房六之進は、はりつけにしてもよいのではないか。
雅楽頭その通りである。
雅楽頭海境は立てても、白岩内の漁場境は証文の通りにし、20年の大法を破ってはならない。
 一同がこれに賛成し、この件は落着した。地下人の証文も破らず、請領ももどさない事に決定したのである。
6日の評定所への出席者は、河内、板倉安房、備前、次左衛門、蔵人、源左衛門で老中と横目衆は出席しなかった。そして六之進だけを呼び出して、
河内守大こやが谷まで、土佐より道を作ったといっているがどうか。
六之進弘瀬より道を作りました。大こやが谷は、弘瀬と小矢之浦の中間にあるので、両方より作りました。たとえば両方に部落があって、その間10里であれば、他領であっても5里づつ作るはずです。
河内守他領の道を5里作る者は、天下にはいないであろう。
板倉5里はおろか、1里も作る者はいないでしょう。
六之進姫島切とうより南は、先年土佐領にしてすませました。海は予州分に決めました。
蔵人予州の海の中へ、少しの島、切とうより南を左京様は土佐へあげたのか。
 ここで奉行達は市右衛門を呼び出し、姫島の境のこと、芦の境のこと、長浜、大小島までの伊子側の釣漁と、大和山の伐採のこと、請領のこと等を質問し市右衛門はこれらを詳しく説明した。
5月8日評定所で寄合があり、河内、阿波、出雲、大和、備前、次左衛門、蔵人、源左衛門、北条安房、伊豆が出席した。
河内守この前申した外に新しく云うことはないか。
六之進この市右衛門は奉公人であり、地下人ではありません。
役人一同いらざることをいうな。
市右衛門六之進は、さいさい我等を奉公人というが、私は反って六之進が奉公人ではないかと思います。六之進は評定所へ参るのに馬に乗り、道具をもたせ、若党を召し連れ、はさみ箱をもたせ、御直勤の人々といっしょになって評定所の門外まで乗って来ています。
一同いらざることをいうな。
伊豆守10日、11日、12日のうちに仰せ渡すのでそのつもりでおれ。

白岩岬のほうさすばえ 請領の図
白岩岬のほうさすばえ 請領の図

その日(5月8日)河内守の宿で、判決書の下書きをし、評定所へ持参、それを奉行衆に見せた。備前はその内容を見て、姫島の網代に「土佐の船入るまじく」とあるのに気がつき、「姫島のことにつき申し上げることがある。」と口火を切った。蔵人は、「土左守と左京殿が話しあいをし、一度落着したものを、又このようにするのは合点がいかない。」といい、備前、蔵人、出雲、大和、源左衛門、板倉阿波が相談し、「土佐の船入るまじく、とあるのを削るがよい。」といったが、河内守は承知せずに次の間に立っていった。やがて右の所を消して出て来た。しかし今度は伊豆守が賛成せず、豊後守、美濃守も同意せず、そのためまた初のように書き加えた。
土佐側にひいきの人達は、「請領山については、大こやが谷まで土佐で道を作っているので、土佐のいう通り、大こやが谷までとする方がよい。」といったが、河内守は、「土佐の百姓方より請領境は木落古道より東、みこが谷境と証文にある。ここには持参していないが、道作りよりも証文の方が有力である。」といい、他の人々も仕方がないとして河内守のいう通り、みこが谷限りということになった。
これらの事情を兼山及びその家来たちは、北条安房、大和守、出雲守、備前守、及び書類読みの伯元をたずねて聞きだした。そして兼山は、これらの事情を、雅楽頭をたずねて報告し、「請領山は、みこが谷限りでもしんぼうするが、姫島網代のことは承知出来ない。」といって相談をした。
また10日の晩にも兼山は雅楽頭をたずねた。雅楽頭は、この日伊豆守と会合したのであったが、その模様を兼山に次のように知らせてくれた。
「伊豆が、土佐伊予公事落着の書き付けができたので見てくれ、というので見た。姫島網代の事も、請領山大こやが谷限りを、みこが谷限りにしたことも合点がいかない。これでは土佐の面目はまるつぶれではないか。土左守と左京とが申しあわせて落着している所を、再度違う決定をすることは、大変なことである。こうなれば、この裁判を、5年でも10年でものばし、公方様が成人になった時、御直さばきを受けるがよい、といった。伊豆守は、すでに公事人にも判決の期日を申し渡しているので、判決をのばすわけにはいかない。ぜひ裁許をしてくれといった。私は、お前の考えと私の考えは違っている。もう一度皆の前で審議をして決定した方がよい。といってついに裁許をしなかった。このような事情でまた明日、役人が寄り合うことになったので、役人衆によろしく頼んでおけ。」
そこで兼山は、直ちに備前、出雲、蔵人、北条安房、源左衛門、下総、次左衛門、大和たちへ頼みに行った。
11日に、市右衛門は、河内守の所へ参上し、みこが谷限りという書状を見せてくれるように頼んだ。河内守は、源五郎より六之進にあてたという状を読んできかせた。
「弘瀬川より北在所同上之松山仏の岡木落境目古道より東みこが谷之儀は、尤御領分に候へども、先規より請銭を出し、土佐より支配仕候。」
とあるので、みこが谷が請領境である。といった。市右衛門は、
「そうではありません。忠兵衛という者の書状に、弘瀬の上の谷尻への山道と、かぢがくぼ木落の間の山中で、弘瀬の者が木を伐るといってきたので、そこは請領である、といったのです。請領境は上は、3っ石、其の下は大こやが谷とあって、大こやが谷が境です。」といった。
この日城中で評定があった。

雅楽頭姫島網代を土佐領と決めたのに、土佐の網を入れないとある。又大こやが谷まで請領の所、みこが谷限とあるのは合点がいかない。この点を老中に申し入れ、各々の意見を聞くために集まってもらったのである。
備前姫島網代土佐の者入るまじく、とはよくない。先年藩着のところを、また引き起して姫島網代を予州につけ、大こやが谷まで土佐領で道を作っているのが請領のしるしであるが、これが少しでも欠けると、70年支配しているので20年の大法にさわります。
出雲、蔵人、源左衛門、 (備前と同じ意見をいう)
北条安房世間の物笑いにならないようにしたいものです。一度すませたものを、再度引き起こすことはよくない。

このように、老中の酒井雅楽頭と諸役人は土佐側に味方してよくがんばった。しかし、伊豆守は立腹して役人たちにあたりちらしたが、北条安房の申分に負けて、とうとう姫島の網代は土佐のいうようにすませた、大こやが谷については、河内守が異議を唱え、さらに豊後守も、「予州の山であり、少しの事だから是非みこが谷限りにすませてはどうか。」というので、その通りにした。
土佐側では、姫島の網代はゆずれないが、請領山は、みこが谷限りでもよいと、雅楽頭はじめ、諸役人にも伝えてあったので、この請領山については、諸役人はあまり執拗には云わなかったのである。
こうして、諸役人は土佐側の主張に賛成し、河内守と、美濃、豊後、伊豆の三老中、ことに伊豆守が伊予側の肩をもったのであるが、雅楽頭の働きで土佐側に有利な判決となり、12日に判決が発表され、ほとんど土佐側の勝になったのである。