宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

判決

万治2年(1659)5月12日に発表された判決の内容は、次の通りである。
伊予土佐両国の沖島姫島境目並に網代等争論之ありて、穿鑿の上落着の段双方へ申付けらるの条々
一、伊予土佐地方の境傍示ばえより、沖の島芦のおりのりを見渡し、芦の峰へのぼり、北峰より大峰へかかり、峰通りぬべるは走到り、それより弘瀬の在所へ川を分け、浜は幕うちはえまで絵図の如く、伊予土佐の境を相定む也。是は土佐の方より差出の証文の面に相任候也。また幕うちはえより姫島のきれとうを見渡し、南は土佐分、北は伊予たるべき事。
一、弘瀬前の網代の事。伊予の内に相究る也。然れ共前代以来土州弘瀬より網猟仕来る上は、弥前々の如く為るべく、但し白岩より東にて早吉網猟よろしからざる事。
一、姫島切とうより南は、土佐の地に相究る也。然りといえども、前代以来隼より網猟仕来る上は、弥其通り為るべき事。
一、芦の網代の儀は土佐の内に相究る也。然れ共、予州窪浦より網猟仕来る上は、弥先例のごとくたるべし。並に窪浦母島古屋の浦より長浜大小島迄釣猟の事。又大和山にて柏島より木を伐る事是又双方先例の如くたるべき事。
一、予州地の内、赤弘瀬へ貸の事。木落が峰より見こが谷をかぎり境相定むべき事。
 右条々堅く相守るべく、よって茲に絵図の表境目の所々印判を加へ、双方へ1枚宛之を渡す。違背せしむに於ては、曲事たるべき者也。

         万治2年己亥5月12日
(曾根)源左衛門(勘定奉行)
(伊丹)蔵  人(勘定奉行)
(舟越)次左衛門(町奉行)
(神尾)備  前(町奉行)
(板倉)阿  波(寺社奉行)
(井上)河  内(寺社奉行)
(稲葉)美  濃(老中)
(阿部)豊  後(老中)
(松平)伊  豆(老中)

こうして、15年間も両藩が死力をつくして争った沖の島国境争いは、大部分土佐側の出張が認められ、勝利になったのであるが、伊予側の主強もかなり取り入れられ、両藩の面目を保つようにされている。すなわち陸地の国境は、土佐のいうとおりに決め、白岩の海は伊予領であるが伊子側の漁を禁止し、姫島のきれとうより南は土佐領であるが、伊予側の漁を許し、芦の網代も土佐領であるが伊子側の漁を許し、大和山での土佐の伐採を許すと共に、大小島までの伊予側の釣漁を許すという具合である。
しかし、この判決は、国境を確定しつつも、先規を重んじ、やはり入相を認めている点に特徴があり、これが両藩ともに不満があったのではなかろうか。このような不満、批判をおさえるために、土佐藩主忠豊は、次のような命令を兼山に与えている。

 

一、今度分国沖島公事に付て、公儀より御裁許仰せ付けられ候間、此上はとかくの評判つかまつるまじく候。若無用の評論申し出る輩は、たとい年暦り候とも曲事に申し付くべき事。
     右の趣堅く相守るべき者也
           5月12日     対島守
               伯書殿 (兼山)

これに対して兼山は、直ちに国中にふれを出し、批判しないように命令を下したのである。
5月14日に評定所で大寄合があり、河内守が沖の島の地図へ境の線を引き、裏書きをしたのであるが、その際にも河内守は意識的に伊予側に有利なようにしようとしている。北峰に至ると裏書にあるのに、わざと国境の朱線を北峰からはずし、ぬべるはえより手うちはえ、それから下は川分けの弘瀬の境を、ぬべるはえから直ちに川分けに朱線を入れた。さらに、芦の川の川分け、弘瀬の川分け、芦の網代、白岩の網代、姫島の網代の説明も、他の者の注意にもかかわらず、北峰へ印をおしただけで、他へは書きつけなかった。兼山は、右筆の大橋長左衛門に頼んでいたのであるが、25日の寄合で、長左衛門が河内守にこのことを云うと、「土佐分の網代であれば書き付けない。」といって、どこまでも書いてくれなかった。しかし、右筆の長左衛門は、伯元と相談して、姫島境、同網代、白岩内網代等の書付をし、又長浜、大小島までも予州より猟仕るべくとあって、網猟にまぎれる所を、はっきりと釣猟と書き加えた。
こうしてできた3枚の絵図を、2枚は両国へ、1枚は幕府へ保存することとし、2枚の絵図を両国へ渡すため、6月4日に双方の者共を評定所へ呼び寄せた。
両国へ地図を渡した後、口上で、白岩内の釣猟は伊予で行ってもよい。大和山で柏島の者に木を伐らす時は、先例の通り切手を持って行く様にせよ。その他は書付の通り漁を行えとの達しがあった。
この時、双方より出席の扶持人、地下人は次の通りである。
土佐側
源五郎名代市右衛門、扶持人浜田仁右衛門、入交勘右衛門、江口市左衛門、宗田武右衛門、弘瀬地下人与兵衛、甚兵衛、柏島地下人少左衛門、広岡村庄太夫
伊予側
沖の島庄屋土居六之進、外海浦庄屋三浦助太夫、沖の島地下人五良左衛門、甚兵衛、惣吉、外海浦先庄屋惣右衛門、扶持人渡辺平右衛門

こうして沖の島の国境争いは、落着したが、その争いの最中に篠山で国境争いが起り、またまた両藩共血のにじむ闘争がくりひろげられるのである。この事件については項を新たにして詳しく述べることとする。
沖の島境界争いが落着したといっても、入相は先規の通りに依然行なわれているのであり、漁や山仕事等に別に変化があったわけではない。この事件の結果、変ったものは、土佐領沖の島に対する藩の勢力、支配権の確立ということである。兼山を指揮者として10余年も大闘争を行なった沖の島としては、その結果、兼山の意のままにすべてが行なわれるようになるのは当然であろう。沖の島の争いが落着した翌年の万治3年(1660)に兼山が出した弘瀬浦掟をみれば、その支配ぶりがはっきりするのである。
この弘瀬浦捷については漁村の項693頁に、その全容をのせているので参照せられたい。
沖の島公事判決書 あし側の土予国境跡 沖の島判決についての忠重書状 沖の島古図
沖の島公事判決書 あし側の土予国境跡 沖の島判決についての
忠重書状
沖の島古図