宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

事件の発端

篠山は、大月町の月崎と共に四国霊場の番外とされ、四国88か所を廻る遍路は、月崎を打てば(参拝すれば)篠山を打たず、篠山を打てば月崎を打たないのが例とされ、よく篠山に登山したものであった。
承応3年(1654)夏の頃、高知の五台山の僧宥厳上人が、四国霊場順拝の途中、この篠山に一宿した。その時上人は、この篠山は伊予領か、土佐領かと聞いた。住持が、土佐領である。と答えると、上人は、だいぶん傷んでいるようだが、建てかえてはどうか。高知へ帰り大殿様(忠義)にお目にかかり、建立してもらうようにはからうから、といって帰られた。(都築家文書)
このことがやがて実施され、土佐藩主忠義の命令で、篠山権現堂を建立することになり、明暦3年(1657)5月下旬に、土佐より大工が登山して準備をし、中村で切り組みも行なわれ、6月中には建立の予定になっていた。(伊達家文書)
この事を聞いた宇和島領正木村の庄屋助之丞は、宇和島藩に報告し、両国々境にあるこの堂を、土佐藩が勝手に建てることは許されないと申し入れてきた。
やがて、6月になると正木村の助之丞が、篠山の坊主深覚に宇和島行きをさそった。さそったというよりは命令である。若し行かなければ寺に置くことはできないというのである。坊主は、今まで宇和島に行った事もない。といって断ったが、たっての命令で、とうとう宇和島に行き、家老衆へ御目見えした。
その時、井上次兵衛が、篠山の境は、池矢筈と申し伝えている、というと、坊主は、その事は知らない、とつっぱねた。宇和島藩の郡奉行、伊藤与左衛門は、篠山の堂寺を建立する時は、宇和島の家老か、伊藤か、助之丞に届けなければならないと、しかと坊主に申しつけた。

四国偏礼絵図(宝暦13年)篠山と月山が出ている 正木の蕨岡家 土佐藩の権現堂建立の文書
四国偏礼絵図(宝暦13年)
篠山と月山が出ている
正木の蕨岡家 土佐藩の権現堂建立の文書

さて、両国の国境であるが、これについては昔から国境の歌として、次の歌がよまれていた。
篠矢筈、正木川分、松尾坂、藻津浜中、芦はおりのり
篠山は矢筈が境で、正木は川が境だというのである。その中でこの矢筈が、伊予と土佐とで解釈が異なり、その後の大論争に発展したのである。
矢筈とは、矢の上端の弦を受ける所をいい篠山は東の森と西の森があり、その中間がひっこんで矢筈の形となり、ここを通っている道が国境で、東の森は土佐領、西の森は伊予領、堂寺はすべて東の森にあるので、当然土佐領であるというのが、土佐側の言い分である。
伊予の宇和島藩が池矢筈というのには、次のような準備があったのである。桧垣介三郎が井上二郎左衛門と変名して、明暦元年(1655)8月2日に登山して国境を調べた。その時同道した予州槇川村庄屋宇兵衛、同村組頭忠左衛門並びに住持も、篠矢筈境で、後も前も道が境だと説明した。しかし、介三郎は、下山後、正木村庄屋助之丞と相談して、宇兵衛に手紙を送り、今後篠矢筈を、池矢筈と云えといった。宇兵衛はすでに篠矢筈と云っているので、もうおそいといったが、この日以後予州側では篠矢筈を池矢筈というようになったのである。
篠山東の森の頂上に、長さ2メートル余、幅1メートルばかりの小さな池があるが、この池の中に矢筈の形をした石がある。それでこの池を矢筈池といい、これが国境であるというのである。
篠山の境は、古来よりかなりの出入りがあったようである。一条氏時代には一条氏が南予を領した時もあり、土佐の1部を南予に与えたこともある。長宗我部時代にも南予と戦い、これを占領している事もあり、国境がはっきりしていなかったのも無理はない。
一条氏以前に還住藪を篠山の寺領にしており、一条氏時代には窪川村(現宿毛市山北)を篠山のけはい田とし、長宗我部時代には、平田、吉奈に三町四反二十代の寺領があり、さらに篠寺が長宗我部地検帳に記載されている等、篠山の堂寺が土佐領であるという有力な証拠も多く存している。
しかし、この反面、篠寺の勧進に、伊予領の城辺や御荘まで行かせた事実もあり、篠山の鰐口や鐘の銘に、予州御荘篠山とか予州観自在寺篠山とかの銘があることから、一時は予州分の時もあり、入相の時もあり、ここにも国境の判然としない要素があったようである。
篠山の堂寺は土佐領にあるから、これを建立するのに、伊予側に相談する必要はない、という土佐側の出張、篠山は昔から両国支配だから必ず相談して建立すべきだという伊予側の出張、この両者の意見を代表して、土佐の下山庄屋新丞と、伊予の正木庄屋助之丞の間で、度々手紙が交わされている。
篠山の境目は昔から、はっきりしているではないか。坊主を呼び出して境をたずねるのは、境を知らないからではないか。という新丞の手紙に対して、宇和島側が書いてよこした篠山の境目は、
矢はず池より峰続き、二ッ岩、切はぎ、綱付、貝ノ森、一の王子より棋の尾を下り、川分け
横川方面の境は、
境の尾より峰続き、蛇の穴、山口、耳切峠、下田代、ひなた休み、上田代、うどのしがき道別、切はき古道通、矢はず池、堂寺は伊予領にあるが、両国支配といわれているという。
これに対して土佐側のいう境は、
矢筈より貝の森見当、一の王子より峰続き、大山口峰続、石の休場峰続、小ささの峠峰続、梨の木峠峰続にて苧つむきが尾下り、谷川わけにて大川へ、正木川分け
出井方面の境は、
矢筈中より横平の古道、山ぶき道わけ、境の尾峰続、古一の王子、うどのしがき、上田代、ひなた休み、枚立、下田代、耳切峠、山口、蛇の穴、境の淵、である。
この双方の主張で、槇川、出井方面の境はほとんど一致しているが、大きなくいちがいができたのが、頂上付近と、小川平の2か所である。頂上付近は、境が矢筈か、矢筈の池かであり、これにともなって、堂寺が伊予領か土佐領かということになる。もう1つの小川平は、一の王子より下方は槙の尾下り川分け(伊予側主張)か、大山口、石の休場、小ささの峠、梨の木の峠、おつむきが尾下り、谷川分け(土佐側主張)かということである。
この小川平であるが、この地も昔から入相であったようである。双方の百姓達が入山し、木材や肥松などを採っていたのである。この入相地を、土佐は土佐領といい、伊予は伊予領だと言いだしたのである。

藻津の国境の岩 宇和島側のいう矢筈の池 小川平の境目
藻津の国境の岩 宇和島側のいう矢筈の池 小川平の境目