宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

小川平の争い

明暦2年(1656)11月23日に窪川村(現宿毛市山北)の百姓三郎右衛門が、小川平で木材を伐り、角材にしていたところを、正木村の藤右衛門にとがめられ、27日には新助、八右衛門にとがめられた。更に29日には松節(明松にするもの)を採りに行ったところ、15人に松節五荷をうばい取られてしまった。
これについて抗議をすると、正木の庄屋助之丞より、この小川平は宇和領である。今までは、申しあわせで、木を伐ってもとがめなかったが、下山庄屋新丞が、小川平は土佐領であるといい、小川平が論所になったので、このような処置をしたのである。今後この地に入らないようにせよ、との返事であった。
この時に松節を奪い取られた所は、おつむきが尾という所であるが、この地を伊予側では、おつつみの尾といい、地名の呼び方でも1つの争いが起っている。
小川平での仕事を度々じゃまされるので、土佐側ではこれを防ぐために、山番を置くこととし、宿毛、和田、二宮、窪川より大勢の者を出して番小屋を建てたのであるが、これを止めようとした伊予側とけんかもはじまっている。
このようにけんかをしながらやっと番小屋を建てたが、12月5日にはせっかくこしらえていた松の角材を奪い取られ、7日には番小屋を焼かれ、8日には小屋をこわされてしまった。これについて抗議をすると、こちらの領分に小屋を掛け、大勢でおしかけ、しかも侍も居り鉄砲まで持って来て、正木の百姓共を棒で打ったり、組みたおしたりしておきながら、こちらが仕掛けた様に言うとは何事か。との返事であった。
19日には土佐の山番2人が正木の4人に打ちたたかれたので、山番をふやすことにした。
このように、宿毛領内の北辺で騒動が起きたので、宿毛領主山内左衛門佐節氏は、急用があるからすぐ宿毛まで来てくれと、淡輪四郎兵衛を呼びにやった。(淡輪記2)四郎兵衛は浦奉行をしており兼山の片腕となって沖の島公事、篠山公事に大奮闘する人物である。
その間にも小川平で、窪川の者が舟板、舟のかわら(龍骨材)を作って置いていたのを正木の者に切り折られるという事件が起った。これについて、正木側の言分は、小川平は伊予領であるが、双方仲のよかった時には小川平で木材などを伐らせたが、国境争いが起ってからは国境内へは土佐の者をいれないのだ。窪川の者も境をよく知っているので、抵抗もせずに魚材や松節などをすぐに渡したのである、というのである。
これについて土佐側は、窪川の者が承知で渡したのではなく、無理やりに奪い取られたのである、今まで土佐領であり、自由に出入りしていたこの地で、何故にこのような狼籍をするのか、と反論をした。
宇和島藩の郡奉行、伊藤与左衛門、井上次兵衛より、幡多郡奉行、庄佐左衛門、加用甚左衛門へあてて、正木山へ小屋掛けされた件で、来年早々双方より出合って証拠を見せたい。との申し入れも来た。
こうしているうちに、淡輪四郎兵衛が、12月27日宿毛に到着した。直ちに事情を聞いた上、翌明暦3年(1657)正月4日、篠山見分に出立した。境目や道筋等を見分したが、別に変ったこともなかった。ただ1つおつむきが尾峰続きにあるまわり4、5尺もある松の大木1本が焼き折られているのを発見した。(淡輪記2)
この松は、正木村の長三郎、源次郎、作十郎達が、焼き折ったのである。このことで、宿毛庄屋少兵衛の名で、正木庄屋助之丞へ抗議をした。
正月5日、庄佐左衛門、加用甚左衛門の代理として淡輪四郎兵衛が、昨年12月7日のおつむきが尾の小屋焼払い事件の談合に行くことを宇和島に通報し、宇和島側もこれを了承した。
しかし、この後も土佐の者が小川平へ行くと打ちたたかれるので抗議をすると、伊予領に入ることが不都合であるといいはり、抗議と反論が手紙で度々繰り返されている。
そのうちに明暦3年(1657)1月15日、土佐より200人の者が出動し、小川平でかねて仕成していた舟板、かわら(龍骨材)、角材、松節等を、伊予領の大地村を通って、土佐の小川道番所の内まで陸持ちで搬出するという事件が起った。これは、かねてより小川平で、土佐の者が、舟板、かわら、角材などを仕成し、水が出次第、川を流して搬出しようと思っていたところ、昨年暮、夜中に正木の者に盗み取られ、或は切り割られていたから、水をまたずに陸出しをしたのである。
200人の大勢が、伊予領を通って持ち出したこの時の木材は、
舟板1本4っ切
舟かわら1本2っ切
松角1本2っ切
樅角7本
小舟かわら板3板
松節30荷
である。(淡輪記3)この土佐側の強行措置は、実は宿毛領主山内左衛門佐節氏の指示で、淡輪四郎兵衛の指揮で行なわれたのである。なおその根元をいえば、野中兼山の命令で行なわれたといってもよいのである。小川平での伊予山内左衛門佐より兼山に報告され、誰かしっかりした者を1人よこしてくれとの依頼がなされた。これについて明暦2年の12月25日付の手紙で兼山は、左衛門佐を次のようにしかりとばしている。
「貴様を西辺の守りに置いているのは、こんな時の為ではないか。何の為と思っているか。今病気であるが、こんな話を聞くと、いよいよ気分も悪くなる。早く死ねば、こんな話は聞かなかったのに、生きていたからこんな話を聞かねばならない。早く死んでしまいたいくらいだ。たれかたしかな者をよこせというが、それをよこせば、貴様はいらなくなりはしないか。取られた物は早く取りかえせ。たとえ取られた物でなくてもよい。数が少なくてもよい。取られた物を取りかえしたと言へぱよい。」(伊賀家文書より)
というのである。同じ家老仲間の節氏にこんな手紙をよこすところをみると如何に当時の兼山が大きな権力を持っていたかがわかると共に、兼山の神経質的なするどさやきびしさが、まるで病的ではないかとさえ思われるくらいである。
この兼山の手紙をもらった節氏は、これ以上指示も仰ぐこともできず、淡輪四郎兵衛と相談して、この強行措置となったのである。
この事件について伊予側は、伊予領のおつつみの尾へ山番3人を置いていたところ、正月15日に土佐の者150人余が押し入り、狼籍をし、材木を盗み、その他楠山筋より350人、合計500人が伊予領の大地の麦の中を通り、さらにこれをとがめた百姓5人が打ちたたかれた、と抗議してきた。この事件でも出動した人数を、土佐では200人といい、伊予は500人といい、大きなくいちがいができている。
正月21日には宇和島藩郡奉行伊藤与左衛門が境目見分に出立し、境目を見分して24日に正木村に着いた。かねて打合わせていた通り小川平の件で土佐側と会見する為である。土佐側の代表は淡輪四郎兵衛である25日に両者はおつむきが尾(伊予側のいうおつつみの尾)で会見した。その結果、
    正木、窪川の地下人共山の所作等去秋迄仕来候処を入相に
ということで一致し、最終的には両藩に持ち帰って相談して決めることにした。
一先づ帰って来た淡輪四郎兵衛は、加用甚左衛門と相談し、2人連名で、宇和島の伊藤与左衛門に手紙を送り、さきに決めた事の再確認を行なっている。即ち貝の森より梨の木の間、東は小川平を入相に、西平も入相に、これに相違なければ奉行達に知らせて和談にするが、これでよいか、というのである。
これに対して伊藤与左衛門は、槇の尾よりおつつみの尾の間の、今までの入相の所を入相にといったのである。これが論所になっている所で、西平は関係がない、とつっぱねた。
この場合の「東は小川平を」というのは、土佐のいう境と、伊予のいう境との間の地で、現在は愛媛県側にある国有林替地山のことである。「西平」というのはその国有林替地山の稜線を西側に越えた土地である。土佐側は、土佐のいう境の東西を入相にといい、伊予側は伊予のいう境と土佐のいう境の間を入相にといったのである。
こうしてまたも双方の見解に相違があったのであるが、その後どのような見解の一致があったのか、明らかでないが、この会談以後、この小川平での争いが起っていないところを見ると、伊予側の主張を、土佐側が認めたとも考えられる。
しかし、この間でも双方が共に警戒だけは強めている。2月21日付山内左衛門佐より兼山あての手紙によれば正木助之丞の家の脇と後に番所を建て、藻津の境、脇本にも番家をかまえ、御荘内古道、脇道共に境目に番家を建てている。
土佐側でも、3月17日に12人の番人を置き、半分づつ1日交代で、おつむきが尾へ2人、梨木の峠小ざさの峠へ2人、小川平へ2人、他の交代の6人は、おつむきのわきの深山へ、ひかえのために置いている。(淡輪記3)

両藩のいう篠山国境 小川平の図 淡輪記 兼山より節氏にあてた書簡
両藩のいう篠山国境 小川平の図 淡輪記 兼山より節氏に
あてた書簡