宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

篠山観世音寺の事件

篠山の観世音寺にある釣鐘(高さ2尺1寸渡1尺5寸)には、次のような銘があった。
   与州観自在寺篠山観世音寺当住也
   正長二天己酉10月18日敬白
篠山が伊予領だと主弛する伊予側には都合のよい証拠の1つであった。土佐の者が、この鐘の銘をすりみがいた所、銘が新しいようになった。度々墨をつけてみたが、こするとすぐ墨が落ち、新しい地金が出た。これを伊予槇川村の庄屋宇兵衛に発見されたのである。(淡輪記4)宇兵衛は銘が新しくなっていることを抗議してきた。土佐側は、古来よりの鐘の銘が変るはずはないではないか。当領のものに口出しをするな。とつっぱねた。
5月21日に、槇川の宇兵衛を先頭に、伊藤与左衛門、下代長兵衛、その他侍1人が多くの人をつれて篠山に来て、観音の脇立、不動、昆沙門の2体の台座の下の書付を住持に見せたので、住持はびっくりした。今までは、こんな書付けはなかったのである。それが何時の間にか、伊予側に都合のよい書き付けになっている。
   謹奉彫造予州観自在寺御庄篠山神宮寺本尊
   左不動明王也右毘沙門也赤岸山興禅寺住持比丘宗
   大檀那法眼宗祐和尚奏祈当来作仏者也
   干時応仁三季己丑6月8日 敬白
これは正月20日に与左衛門が篠山に来た時に、(住持不在)与左衛門が堂に入って、何かをさがしたということであるが、その時に書き付けたのではなかろうか。毎年吟味しているが、今までこのような書き付けはなかったのである。と住持が言うと、それには返答もせず、6人で2体の仏像を取り下し、箱に入れだした。なおも住持がとがめると、鉄砲持ち、刀をさした侍、木刀持ち、合わせて7、80人ぱかりで仏像を持って逃げ去った。
土佐の下山庄屋新丞が、この事に抗議すると、助之丞、宇兵衛より、台座に御庄篠川の証拠があるので、取り寄せたのてある。そのままにしておけば、釣鐘の銘のように悪いことをするからだ。不動、昆沙門は鉄砲木刀はきらいだから、そんな物は持って行ったおぼえはない。との事であった。
このような事もあってか、3日後の24日に、淡輪四郎兵衛は楠山に来た。そして、川内左衛門佐節氏の指図で、翌26日には、予州から米ていた篠山の番人83人を、一の王子まで引き下ろし、追い返した。(淡輪記4)
この時の騒動でも、双方とも怪我は少しもしていない。怪我をさせれば、させた方が裁判で不利になるからである、5月27日付の林三郎左衛門、渡辺小兵衛より兼山にあてた手紙に、
さきに下人1人鉄砲にてうたれ候へば、境目の御公事必定御勝になさるべく候。刀鉄砲にて手負いなど、これ有候へかしと存じ奉り候
とあり、手負を受ける事を望んでいる様子がよくわかる。この点伊予側もよく心得ているので、騒動の割合にはけがはなかったのである。

篠山観世音寺の跡 観世音寺の仏像事件
篠山観世音寺の跡 観世音寺の仏像事件