宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

朝倉事件

篠山や小川平で度々事件が起き、これを現地で解決しようと思っても、双方が都合のよい事だけを言ってなかなか解決ができない状態であった。現地ではもはや解決できないと見てとった宇和島藩では高知城下へおしかけて仕置衆に談判して解決しようと考え、郡奉行、伊藤与左衛門、加幡上兵衛、庄屋2人、坊主1人、その他合計65人が高知城下近くの朝倉まで来るという事件が起きた。
一行は、はじめは百姓であった。6月1日高岡郡檮原の番所を通って土佐へ入った。番所でとがめたが、宇和島藩家老の使者といって強行突破、しかしここに35五名を留めたので実際に通過したのは65名となったのである。
翌2日に朝倉に着いた一行は、えびが橋で庄屋木工右衛門に止められた。木工右衛門が尋問すると宇和島伊達家の家老、桜田監物、古谷九太夫、神尾勘解由よりの使者で来たという。
一先ず、木工右衛門の家に連れて行き、直ちにこの旨高知へ知らせた。高知より七郎右衛門、太兵衛が来て、ここまで来た理由を尋ねた。伊藤左衛門は、両国の境について争いがあり、淡輪四郎兵衛と出合って相談したが、いまだに解決していない。城元の意向を聞きたい。土佐は篠山の釣鐘の銘をすりけしている。仏の台座の銘も消されてはいかないので、台座の書付を見せるために来た。との事であった。
七郎右衛門は一応土佐側の出張を述べ、書状を受け取って高知へ差し出した。七郎右衛門が3日に逢った仕置の者も、逢わずに追い返すという態度であった。朝倉に引返した七郎右衛門は、仏の台座の書付けはよい証拠といわれるが、土佐領の仏をなぜ盗み取るのか。そちらに取って帰り手を加えた銘は証拠にならないといって、城下に入れず、証拠の品々を見ることもせずに、そのまま伊予に追い返した。
しかし、65人もの大部隊が、許可もなく国境を越え、城下近くまで来るということは、実に重大な事件である。このことで土佐藩が立腹したのは、当然というべきであろう。この事件について色々の風説も流れたことであろう。返報のために、野中兼山が6、700人もつれて、宇和島近辺まで行くという風説も流れ、松山藩主を心配させている。7月17日付の松山藩主松平隠岐守定行より、土佐藩主松平対馬守にあてた手紙の要旨は次の通りである。
いろいろの風聞がこちらに来ている。これがいつ江戸の幕府へ知れるかもわからないので注意が大切である。
一、5月末に朝倉へ、宇和島より6、70人も来て、5、6日も逗留したというが、その仔細はどうか。それについて野中伯耆が6、700人を連れて、宇和島近辺へ行くということだが、どうか。
一、沖の島の争いがすまないうちに、宇和島より如何なる我儘を仕かけてきても、取り合わないようにすることが大切である。
一、沖の島の境をふみこえて、宇和島側が来ても、野中伯耆をつかわしてはならない。
一、先年より、一領具足が百騎あったのだが、この頃またさらに、百騎取り立てたというが、まことに下手なやり方だ。
一、辺路の者を留め、国境に堅く番を置いているが、世問は不審に思って見ている。辺路は通してはどうか。
この手紙を見ると、松平隠岐守が野中兼山を相当警戒しており、毛ぎらいしている様子がよくわかる。これに対して対馬守より、7月23日付で、弁明の手紙を出している。

松山藩主よりの書状
松山藩主よりの書状